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太古の浪漫
弥生文明を先導した |
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| 宮下文書の徐福 | 徐福は名門の出身 | 徐福渡来の真相 | 徐福は弥生文明の先導者 | |
| 徐福(徐市)の実年代 | 徐福にまつわる民話 | 総合考察・結論 | 引用文献・参考資料 | |
| 【 総合考察と結論 】 更新:2007年12月26日 | ||||
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日本各地に残る「徐福伝承」は、我が国の古代史・日本書紀や古事記には何の記載もないが、民間の伝承は史実を反映していた。徐福伝承は、まさに紀元前三世紀の史実だった。 弥生の古代史は、編纂当時の征服朝廷のもとでは、あえて神代の曖昧な神話で史実を改竄した形跡が多い。 徐福一族、数千人の集団渡来は、揚子江流域の優れた稲の品種と、すすんだ水田稲作技術をもたらし、日本列島に弥生文明の幕開けを先導した。そして、徐福は秦始皇帝が命じ派遣した倭の国の王だった。史記は「徐福は平原広沢を得て王として止まり帰らず」と記している。 八女市の童男山一号古墳群は、徐福一族の陵墓だった。吉野ヶ里は、徐福らが建国した首都だった可能性が高い。
古事記を編纂するとき、当時の古代史、「日継(ひつぎ)」と先代の「旧辞(きゅうじ)」を誦習したと伝えられる稗田亜礼(ひえだのあれい)と、それを撰録した太安万侶(おおのやすまろ)36)は、ともに須佐之男尊(スサノオ)の末裔だった89-2)ともいうが、真偽の程は定かでない。 上図は、古事記完成時に太安万侶と稗田亜礼が自署したとされる神代文字で、伊勢神宮文庫に保存されているという。神代文字は読めないので何を書いているか判読できないが、書かれた日付は判読できる。 古事記の完成は和銅五(712)年というが、この署名には和銅元(708)年十月の日付が入っている。この四年間に大幅な改竄が行われ、しかも100年間も伏せられていたのであろう。 ところで、全国各地に残る徐福伝説や伝承は、「桃太郎の鬼退治」や「竹取物語り」などの文学作品とは違っていた。 弥生前期に実在した秦国の方士・徐市(徐福)と、その一族の集団渡来の史実であることが中国の史書21),57)や我が国の古史・古伝43),96),97)など、また徐福一族の墓碑銘発見18)、中国での徐福村の発見23)などから、徐福の実在が見事に立証された。 国内における徐福伝承や中国での記録の多くは、徐福は、「秦始皇帝の命による不老長寿の仙薬探し」と伝えられてきた。 しかし、真相は当時、始皇帝の圧政に不満をいだいていた徐福は、最初から不老不死の薬を持って帰国する気持ちなどなく、東海の島へ脱出、新天地での国づくりを考えたのだった。 不老不死の仙薬探しなら、大人が20〜30人もあれば十分である。三千人もの集団は必要ないし、少なくとも童男女(子供)を連れて行く必要性もない。五穀の種や百工などが何故必要なのか。 渡航先で永久滞在することが前提にあったことは間違いない。始皇帝の統治下から逃避しようとした民衆の集団脱出事件だったとみられ、仙薬探しでは決してない6)。 ところで、昭和57(1982)年6月、中国では江蘇省・かん楡県の古い地名の中に徐阜(福)村が発見され、その地には「徐福伝説」の伝承が残っていることが確かめられた。しかし、その村には現在、「徐」姓を名乗る者が一人も居ないという。 その地の古老が伝える伝承は、徐福はまさに東海へ旅立とうとする時、親族を集めて言い聞かせた。 「私は皇帝の命によって薬探しに旅立つが、もし成功しなければ秦は必ず報復するだろう。必ずや「徐」姓は断絶の憂き目にあう。我々が旅だった後には、もう「徐」姓は名乗ってはならない。それ以来、徐姓を名乗る者は全く絶えた」23)というのである。 この伝承は何を意味しているのだろう。云うまでもない、徐福自身は再びこの村に帰ってこないことを言外に示唆しているではないか。 中国大陸では、西方の遊牧民族・犬戒の進入によって鎬京から東方の洛邑に遷都した周は、さらにその後550年の長きに渡る春秋戦国時代を経て中国の宗家としてその存在を誇っていた。しかし、やがて東周の勢いも衰え、大陸各地に諸侯が割拠して覇を争う戦乱の世となった。 いわゆる「春秋の五覇・戦国の七雄」の時代である。これらの諸侯は血みどろの争いを繰り返したが、やがて一頭抜きん出て周を覆したのが秦王「瀛政」である。乱世を統一した「瀛政」は、中国の古代帝国「秦王朝」の誕生23)となり、瀛政は始皇帝を名乗った。 始皇帝はその二年後、全国巡行の旅に出るが、旅に先立って会稽山に登り、天下統一の功績をたたえる碑を建て、琅邪に三ヶ月滞在したという。この時、徐福は初めて「不老不死薬」に関する意見書を上奏している。BC219年のことである。 史記の秦始皇本紀には、「徐市らは始皇帝の命を受けて海へ出たが、仙薬を手に入れる事は出来なかった。蓬莱へ行けば必ず得ることが出来ます。しかし我々はいつも大鮫に苦しめられてついに島へ行くことが出来ませんでしたと偽って上奏した」23),77)。 またBC210年、始皇帝二回めの巡行のとき、徐福は再び琅邪を訪れた始皇帝に接見し、再度「仙薬」を求めて渡海すべしとの命を受けたとしている。 史記の「淮南衡山列伝」によれば、「・・・。始皇帝大いに喜び、良家の男女三千人を使わし、五穀の種と百工を加えて渡海させた。徐福は平原広沢の地を得て止まり、王となり帰らず。人々は嘆き悲しんだ」57)とある。 天下統一後の始皇帝は、神仙の道に心を奪われ、特に「不老不死の仙薬探」しに躍起になっていたところで、徐福はその白羽の矢が自分に立った事を知って遠大な計画を立てた。 秦始皇帝は、咸陽城や阿房宮や万里の長城建設など、多くの土木事業を興したが、なかでも驪山の麓に造営した巨大な自身の陵墓建設に70余万人にのぼる刑徒を徴発して送り出し、建設が終わると大量に生き埋めの刑にした23)という。身震いするような始皇帝の所業である。 不老不死の仙薬探しに失敗して死罪になったという噂も聞こえるなか、徐福自身も死罪になるかもしれないという事は容易に想像できたはず23)である。 徐福は、「不老不死」の仙薬など、本当に信じていたのかは疑わしいが、断れば首をはねられる。一回目は何とか騙しおおせたが二度目はもう言い訳はできない23)。 つまり、帰っては来れないと悟ったうえで、東海の島に王国を建設するに必要な人材、技術を一族から集め、始皇帝をだまして秦を脱出した23)のだった。 一方、始皇帝の本来の目的は、えん楡地方、「斉」の故地を、隅々まで一掃して秦への反乱を押さえ、将来の禍根を絶とうとした狙いがあったのであろう。 徐家は、かっての徐王国の末裔だった。それ故に始皇帝から無理難題を押しつけられたが、そうした名家の出身だからこそ、三千人の大集団を任せられる程の信頼が備わっていたのだろう23)。 最近になって、徐福の家系につい調査した結果をみると、彼の先祖は夏王朝の初期に「徐」に封じられた王で、子孫は代々長江(揚子江)准河泗水、済水の流域一帯に栄えたという。つまり、徐福は中国屈指の名門・徐王の末裔23),97)だった。 「後漢書・東夷列伝」に、「辰韓のある耆老は、自分は秦からの亡命者で、苦役を避けてはるばる韓の地に逃れてきたと言った」とあり、 「三国志」にも、「陳勝らが蜂起して国じゅうが秦に背き、燕・斉・趙の民衆で朝鮮に逃亡した者は数万人に及ぶ」とあるように、秦の暴虐から生き延びようとすれば民衆は浄土を求めて海外へ脱出するしか道がなかった。当時、秦の圧政は如何に凄惨なものであったかを物語る。 徐福自身は、もと王族の末裔でありながら、秦の始皇帝により中国全土が統一され、徐福の故国も滅ばされた。徐福は、その悲しみを胸に秘めながら始皇帝の命をうけ東海へと船出した筈である。 始皇帝の苛烈な支配をのがれ、異境での生を全うしたことはまさに晴天の霹靂だった。しかし徐福の心中には、だれにも云えない秘密もあった。 そして、鹿児島県串木野に伝えられている徐福の冠岳封禅行事は、王就任と建国の旗を高く掲げた証左だった。 中国の古代王室の伝統では、封禅はその国が重大な業績をあげたり、その道に重篤な危機に陥った場合にのみに行なうことになっている盛大な儀式で、祭壇を築き国家の安泰や人民の繁栄を天に祈り神に願うという。 徐福は串木野の地で「封禅の儀式」をとり行なったと伝承されている。その意味するところは、佐賀から鹿児島へと移動した徐福集団が建国の意思表示をしたことになる。 『史記』にある、「平原広沢を得て止まりて王となり、来らず」とは、徐福のこの一連の行動を簡潔に表現したものである。 それは驚天動地の「東渡事件」のひとつの結末で、串木野の冠岳での徐福の封禅行事は、まさに王就任と建国の旗を高く掲げた証左だ73)とみられる。 また一説に、徐福の渡来目的は史記に記されているような仙薬探しではなく、始皇帝と徐福、それに秦朝の高官のみが知っていた極秘事項だった。そして、史記の編者・司馬遷はあずかり知らなかったことである87)という。 仙薬探しは表向きの口実で、徐福船団の規模や彼らが日本で探した薬草に不老不死の効能が認められない事実から、それが至上の目的であったとはとても考えられない。 その実、当時の秦は北方の隣国「胡」の脅威に対する作戦から、日本列島への集団渡海で、徐福は始皇帝が密かに命じた倭王だった87)とみているように、親族、童男女3,000人、百工まで引き連れ、五穀の種や南天竺より求めた薬師如来像まで持参43),97)しての仙薬探しの渡航は、不自然と云わざるを得ない。 三国志の文字情報を研究した長田通倫氏は、伏せ字の「徐福」に関連する裏情報を発掘、呉音字の頭字群、中字群、尾字群からも、倭族、「徐福」に関連する裏情報が発掘され、倭連合国の創設者は「徐福」であると考えられる48)としている。 池田仁三氏は、福岡県八女市の童男山一号墳石室の墓碑名をコンピュータ画像処理によって解読し、徐福一族の墓を発見した。徐福の没年は、「辛酉年二月十七日 御年六十六歳」18)とある。 史記の記述と墓碑薨年干支の整合から、それぞれの生存年は、徐福(BC245〜180年)、福永(BC209〜170年)、福萬(BC181〜126年)、福壽(BC157〜113年)となる。富士文書では徐福の子で兄弟となっている福永、福萬、福寿は、それぞれ徐福の子、孫、曽孫に当たる18)とみている。 徐福の渡来伝承は、九州から東北まで全国30数カ所にものぼる34)のは、徐福一族とその集団数千人が、数十隻の船に乗り込み、波にもまれながら日本列島各地にばらばらに辿り着いたことを裏付けている。 徐福渡来の真相は、仙薬探しを口実にした秦始皇帝による国外追放説、戦乱を逃れた徐福の逃避行など、諸説があるなか、山本弘峰氏87)のいう「仙薬探しではなく、始皇帝と徐福、それに秦朝の高官のみが知っていた極秘事項があった」という説を支持したい。徐福らが最終的に出航したとき、始皇帝自らが見送っているからである。 秦始皇帝の横暴や春秋時代における徐福の逃避行として非難するよりも、むしろ当時の中国大陸における時代背景を読み取った秦始皇帝・瀛政の大局観に基づく民族繁栄策としての集団移民の偉業として捉えたい。 そして、徐福とその一族の集団渡海の大事業は、我が国弥生文明の夜明け時代を創った太古の浪漫と称えたい。 徐福に引かれて渡来した一族、数千人の童男・童女、百工の末裔の多くは日本人の先祖となったとみられ、いまも我々の多くはその子孫でもある。 日本民族の来し方、行く末を、徐福の一生と重ね合わせ、この温故を指針とし、来るべき人類の在り方、そして万民豊楽の道を探るべき示唆を得た思いがする。
初版:2005年02月15日 |