古代日本は中国の属国だった

 中国や韓国、北朝鮮は、今も国際問題が生じる度に歴史問題を持ち出し、植民地支配の時代をネタに、ゆすりをかける。近世の出来事だけに目を向ければ、それも否めないことである。しかし、中国は古代、漢、魏の時代から、自らを超大国・宗主国として、朝鮮半島諸国や倭国(日本)を属国として、内政にも絶えず干渉してきた21)

 こうしたとは日本書紀は沈黙しているが、中国は自国の史書にはっきりと記している。主な古代記録を拾ってみると、おおよそ次のようである。


○後漢(東漢) 建武中元二(57)年、貢獻した奴国の王に、「漢委奴国王」と称して金印を授ける(後漢書 東夷列傳)。

 これは、「漢が委ねる奴国王」という意味である。この金印は、天明4年(1784年)に博多湾沖の志賀島から発見され、今も福岡市博物館に展示されている。

 金印を授けられたのは、第三代・安寧天皇(師木津日子玉手見命)の皇子・常根津日子命だった59),93)。常根津日子は大和朝廷から北九州に在った奴国の統治に派遣されていたのであろう。常根津日子の没後、身内か側近が金印の側面に諡号を書き込んだものであろう。

 金印は後世の偽作ではないか114)と疑うむきもあるが、古代の奴国の在ったとみられる福岡県糸島郡二丈町に在る一貴山銚子塚古墳近傍から常根津日子命の墓碑「丙寅年三月十六日 御年四十七歳」が解読、生存年はAD20〜66年59)と比定され、後漢書の記述年代と合致する。


○後漢(東漢)永初元(107)年、「倭国王師升等、貢ぎを献上」(後漢書 東夷列傳)。

 倭国王師升等は、「わ・くに・おし・ひと」と読み、古事記が記す「大倭帯日子國押人(おおやまと・たらしひこ・くにおしひと)」のことで、第6代・孝安天皇である。書紀は、「日本足彦国押人(やまと・たらしひこ・くにおしひと)」としている。

 大倭帯日子國押人命の生存年代は、宮と伝承されている室秋津嶋宮跡(奈良県御所市室)から画像解析で得られた墓碑から、AD 42〜118年59)とみられている。

 後漢書の「倭国王師升等」を、「倭国王(わこくおう)師升(ししょう・すいしょう)ら」と誤読している歴史家がいるが、それでは答えは得られない。


○曹魏 景初三(239)年、魏の明帝に朝獻した倭女王・卑彌呼(卑弥呼)に、「親魏倭王卑彌呼」の称号を与える(魏志)。

 卑彌呼とは、日巫女(ひみこ)・王女(にめみこ)のことで、第7代・孝霊天皇の皇女・倭迹迹日百襲姫や第10代・崇神天皇の皇女・豊鉏入姫のことをさしていることがわかった。

 倭迹迹日百襲姫の古墳とされている桜井市の箸墓古墳の環濠、宮西側神社から発見された墓碑「倭母母曽日賣命 戊寅年十月二十日 御歳八十四歳」とあり、生存年代は115〜198年とみられ、魏志の記述年代と合わないが、魏志は後の日巫女(壹與=豊鉏入姫)と混同しているとみられます。

 また、景初三(239)年六月、倭女王、大夫・難升米等を遣して云々、魏の明帝に朝貢。今汝を以て親魏倭王と爲し、金印紫綬を仮し、(中略)。汝、それ種人を綏撫し勉めて孝順をなせ」(魏志)と。

 ついでながら、卑彌呼についての記述をみると、「・・・一女子を共立、王と為し、名に曰く卑彌呼、鬼道に事へ、能く衆を惑す、年已に長大にして夫壻無く、男弟有りて治國を佐く」とある。

 神の威信を強く信じていたであろう当時、日巫女は鬼道(占術・日神信仰)の宗主として人々から崇められ、政治・軍事問題はじめ、事件や自然災害などの対処に、神懸かりした巫女の判断が神のお告げとして重視され、大王よりも優位な存在だったのであろう。

 書紀も、「魏志に云う」としてこれを神功皇后39年、40年条に引用しているが、年代を改竄して神功皇后が卑彌呼だったと示唆しているつもりであろうが、神功皇后時代を一世紀も繰り上げている。


○曹魏 正始七(247)年、「・・・卑彌呼、以て死す。卑彌呼の宗女・壹與(とよ)、年十三を立てて王と爲し、國中遂ひに定まる。壹與、倭の大夫・率善中郎將掖邪狗等二十人を遣し政等還るを送らしめ、 因りて臺に詣り、男女生口三十人を獻上し、白珠五千、(中略)・・・を貢ぐ」(魏志)とある。

 余談になるが、壹與は、崇神天皇と荒河戸畔の娘・遠津年魚眼眼妙媛の皇女・豊鍬入姫58)のことである。豊鍬入姫は豊鉏入姫とも書かれ、齋宮(日巫女)として天照大神を祀っていたと、書紀の崇神紀にあります。

 ただし、書紀は「伊勢の神・天照大神云々」としていますが、実際は古代天皇家の皇祖天照魂大神、つまり大和国の開祖・大歳尊(改名して饒速日尊)を祀る大神神社(おおみわじんじゃ=祭神は大物主神に改変されている)を祀っていたのです。

 その証拠に、豊鍬入姫命は大神神社の摂社檜原神社境内の豊鍬入姫宮に祀られています。やはり倭迹迹日百襲姫の没後、大神神社の巫女として祭祀を司った大和国王家の王女だった確かな証しです。

 ところで、遠津年魚目目微比賣命の墓碑が、和歌山市の紀の川北岸、大谷古墳近傍で発見され、「甲戌年六月十八日 御歳三十七歳」とあることから、生存年代は158〜194 年59)とみられている。

ついで乍ら、荒河戸畔は、古代の荒河荘の元祖とみられ、中世には荒川氏から平野氏に改姓し、その一族は荒川荘の下司や下司代等を司っています。また、天文12(1543)年、ポルトガルから種子島に伝来した鉄砲を導入した根来寺杉之坊の院主・自由斎や兄弟の津田監物筭長(算長)も、その末裔だったことが分かりました。


 話題が逸れてしまったが、本論に戻そう。中国は宋の時代になっても、長らく倭国を支配下に置いた。

○劉宋 元嘉二(425)年、「讃(履中天皇:伊邪本和気命)死して、弟、珍(反正天皇:蝮水歯別命)立つ。使を遣し貢獻。・・・詔して安東將軍・倭國王に除す」。(宋書 倭国伝)

○劉宋 元嘉十五(438)年夏、倭国王の珍(反正天皇:380〜438年)を以て、安東将軍となす(宋書 帝紀)。

○劉宋 元嘉二十(443)年、「倭國王濟(允恭天皇:393〜453年:男浅津間稚子宿禰命)、使を遣して奉獻す。復た以って安東將軍・倭國王と爲す」(宋書 倭国伝)

○劉宋 元嘉二十(443)年、河西国、高麗国、百済国、倭国、並使いを遣わして方物を献ず。倭王齋(允恭天皇)、宋に遣使し、安東将軍・倭国王に任じる。また、年元嘉二十八(451)年、秋7月甲辰、安東将軍倭王、倭の齋(允恭)、号を安東大将軍に進む。(宋書 帝紀)

○宋 大明六(462)年、倭国王の世子の興(安康天皇:416〜456年:穴穂命)を以て安東将軍となす。(宋書帝紀)

○劉宋 昇明二(477)年、「詔して武(雄略天皇:418〜479年:大長谷命)を・・・六國諸軍事、安東大將軍、倭王に除す」(宋書 倭国伝)

○宋 昇明二(478)年、倭国王の武(雄略天皇)、使いを遣わし方物を献じ、武を安東大将軍となす。(宋書帝紀)

○斉 建元元(479)年、武(雄略天皇)を鎮東大将軍となす。(南斉書列伝)

○梁 天監元(502)年、武の号を征東大将軍に進む(梁書列伝)。といった具合である。ただし、雄略はこの時期すでに没しているので、この時の武とは、武烈天皇(489〜506年:小長谷若雀命)をさしているとみられる。

 人物名の記されていないものまで数え上げれば、きりがない程に中国詣でをして朝貢し、中国は日本(当時は倭)の国王を配下としての称号を与えている。


 こうして、中国に対する貢獻は、しばらく途絶えていたが、隋の時代(600年)に再開され、唐まで続いている。この時代になると主に、すすんだ中国文明・文化の導入が目的となり、遣隋使・遣唐使の派遣となる。

「開皇二十(600)年、倭王、姓は阿毎(あま:天)、字は多利思比孤阿輩雞弥(たりしひこおおけみ:足彦大王)と号し使いを遣わして闕(長安の宮)に詣る。上(天子)、所司(長官)をしてその風俗を訪わしむ云々60)」(隋書)とる。

 隋の開皇二十年は、書紀によれば推古天皇八年、太子厩戸皇子は27歳で摂政について活躍している年にあたり、倭王は推古天皇(女帝)です。

 しかし「王の妻は?弥と号し後宮に女六、七百人あり。太子を名付けて和歌弥多弗利とす」ともあります。書紀はこの時の遣隋使には何も触れていません。書けば史実がばれるからでしょう。

 実はこの倭王は蘇我馬子大王(天足彦大王99))で、王の妻は雞弥(けみ=蘇我馬子の妻=物部鎌姫大刀自連公62))、太子は大王の長男蘇我善徳だったとみられる。

 また大業三(607)年のこととして、「その王の多利思比孤(たらしひこ:足彦=天皇の古名)、使いを遣わし朝貢す。・・・その国書にいわく、日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや云々。帝は覧て悦ばず。・・・蛮夷の書、無礼あるものは復以て聞かす勿れ」とあり、時の煬帝は、蛮夷の國から侮辱されたものと受け取り怒っている(隋書)。実はこの時の王も多利思比孤は蘇我馬子大王だったとみられる。

 このときの使者・小野妹子は機転を利かせ、隋から受け取った国書を帰途に百済で盗まれたとして朝廷に隠している。一連の悶着が書かれていたので、あえて紛失したことにした60)とみている。

 古代東アジアの超大国だった中国(隋から唐)は、とかく東アジア全域の制覇を狙っていた。七世紀には建国の勢いに乗って周辺諸国に迫り、朝鮮半島諸国や日本は中国の陰にあって、自立の道を探るか、それとも中国に同化するか、二者択一を迫られていたであろう。大王蘇我馬子が選んだのはまさに前者だったとみられる。

 後の天智(中大兄)は中国に迎合したが、壬申の乱で天智朝を制した天武天皇(大海人)も、西アジア的な太陽信仰に基づく文化的にも独立した日本国家の確立を目指した21)とみられている。


 ○旧唐書の貞観五(631)年条に、「日本国の者は倭国とは別種なり。その国は日の辺りに在るを以て、故に日本を以て名となす。或いは曰く、倭国は自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本となすと。・・・。その人の入朝は、多く自ら矜大にして実を以て対せず。故に中国は疑う。・・・」とある。

 日本国は倭国とは別で、その国は日の辺りに在るので日本とした。また、(う→わ)と云う雅(みやび)でない字の意味を憎み、改めて日本にしたというのである。

 このとき、中国では初めて日本という国名を認識したということであり、またそのときに入朝した使人の多くは尊大で、誠実でないので中国は疑う、と云っている。多分、これまでの使人とは態度が変わったのであろうか。

 長年、中国は倭人、倭国と呼んできた。倭という字意を筆者のもとに研修に来ている中国人に尋ねてみると、「陰湿 隠 恥ずかしい 控えめ 引っ込み思案 逃げ腰」といった意味にとられていることがわかった。これも元々、中国人の名付けたものである。

 日本人も、「倭・和」の字を自称に用いて通例は「やまと」と訓読しているが、室町時代頃には「わ」と音読して単独に日本または日本のものを意味する語として用いるようになった16)

 中国は隋・唐の時代、日本は中国文化・文明の導入に、盛んに遣隋使、遣唐使を派遣した。高野山の開祖・空海が真言密教を学んだのも唐の貞元二十(804)年だった。「使いを遣わし、留学生橘逸勢、学問僧空海来朝す」(旧唐書巻一九九 列伝・東夷・倭国・日本国)60)とある。


歴史を踏まえて将来に向かう−歴史に拘っていては展望は開けない−

 ところで、日本が植民地にしたとして、いまだに中国が非難する満州国(中国東北部)も、その昔は高句麗国だったものを、668年に中国(唐)が占領したものだった。後世、清の時代に満州事変の後の昭和七(1932)年、日本軍が清朝最後の皇帝だった溥儀を執政にたてて独立させ満州国を承認し、同九年以降、帝政となったものである16)

 韓国や北朝鮮も、かつて朝鮮王族らが渡来して飛鳥・奈良時代の王朝を乗っ取った歴史を知ってのことであろうか。弥生時代に半島からの渡来人は約十万人、古墳時代には二百六十七万二千人と推計48)され、日本列島の先住民と混血して出来上がったのが日本人である。

 太平洋戦争で昭和201945)年、アメリカの原爆投下で壊滅、負けた日本はその後、敵国だったアメリカ等の支援もあって復興したが、やはりアメリカの支配下に置かれている。政府は日米協調を旗印にしているが、今もアメリカは貿易問題等を梃子に、何かと内政干渉を続けているし、ロシアも占領した北方領土はいまだに手放さない現状である。

 とかく、利害の対立しやすい隣国間は、政治・外交・領土問題・経済摩擦で、ぎくしゃくした問題が多い。古代も今も、その状況は基本的に何ら変わらない。まさに、歴史は繰り返している現状である。


 ともあれ、今はもう言語や文化は違っても、ルーツは同じモンゴロイドである。小異を捨てて大同につき、共存共栄の道を探っていくことこそ、東アジアのみならず21世紀の人類に課せられた最大の責務ではないか。隣国との諍いを繰り返している場合ではない。歴史に拘っていては新たな展望は開けない。

 北朝鮮による拉致や核開発、日本海に向けたミサイル発射などの軍備増強、日韓・日中の領土問題、さらに危機が予測される昨今の地球環境の問題も、国際協調なしには解決し得ないものである。

 小泉総理は、「日本は第二次世界大戦の反省と、その上に立って二度と戦争をしてはならないと心に誓い、犠牲になった多くの戦没者の冥福を祈り、決意を新たにする」として靖国神社に参拝した。中国の指導者は、総理の靖国神社参拝を目の仇にして日中首脳会談を行わないと云う。

 可笑しいではないか。会談や話し合いをせずに、相互理解も成り立ち得ないし信頼関係も生まれようがない。会談によって、靖国参拝問題も話し合えば、相互理解も深まるというものである。隋や唐時代からの宗主国意識は、いまだに直らないのであろうか。

 「天下太平 萬民豊楽 同心協力 人心救済 萬霊感謝 祈祷冥福 乃至法界 平等利益」と、先人は説いているではないか。


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 記紀に改竄された古代史の真相を糺す