天照御魂大神は饒速日(大歳)尊だった

 大歳尊(以下、オオトシと略記)は、スサノオの御子で、父の死後、北九州の筑豊辺りから讃岐、播磨を経て摂津、そして河内、大和に東遷し、饒速日(以下、ニギハヤヒ)と改名。戦闘なく日本王朝・大和国を建国、後に東海・関東地方まで統一を果たし、大和朝廷の始祖となられた覇王だった。

 ニギハヤヒの死後、末娘・御歳(伊須気依)姫は日向から婿養子として、須佐之男尊の孫狭野命を迎え、狭野命は磐余彦と名乗り、初代・神武天皇として即位した。ときに、辛酉年春正月庚辰朔68)とある。発見・解読された磐余彦尊の墓碑の薨年(前出)59)からみて、紀元前60年2月11日(陽暦換算)のこととみられる。2月11日は今も建国記念日とされ、国民の祝日である。

 ニギハヤヒは、記紀が書かれるまでは皇祖神・天照御魂大神、大歳御祖皇大神として祀られてきたことが、多くの史料や古代からの神社の祭神・縁起・伝承が証明している。

 即ち、延喜式神名帳には、「天照」を名乗る神社が、山城、大和、摂津、丹波、播磨、筑紫、対馬などに記載され、なかでも、記紀編纂以前の創建で古い神社の祭神を調べてみると、

他田坐天照御魂神社(奈良県桜井市)祭神・天照国照彦火明命。

鏡作坐天照御魂神社(奈良県磯城郡)祭神・天照国照日子火明命。

木島坐天照御魂神社(京都市右京区)祭神・火明命。

新屋坐御魂神社(大阪市茨木市)祭神・天照国照天彦火明大神。というように、その祭神をすべて火明命、天火明大神としている。しかも、神社名は天照御魂神社である。

 これらから、火明命は天照御魂神と称されていたことがわかる。新屋坐天照御魂神社にいたっては、祭神名に大神を名づけているので、「天照御魂大神」と称したほうが相応しいかも知れない。ほかには、

粒坐天照神社(兵庫県龍野市)祭神・天照国照彦火明命。

伊勢天照御祖神社(福岡県久留米市)祭神・天照国照彦天火明命。

天照神社(福岡県鞍手市)祭神・天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊。

阿麻氏留神社(対馬下県郡)祭神・天照魂命などがある。

 「伊勢天照御祖神社」の祭神・天照国照彦天火明命こそ、伊勢神宮の天照大神であり、皇祖神であると証明している。 女神・アマテラスは、日本書紀の編者の都合により、その称号を与えられたにすぎず、実状は全然違っていたのである。なぜなら、全国の天照を名のる古神社は、皆一様にその主祭神を天火明命、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊としているからである。

 このように、「天照」を名乗る古神社、その祭神・天照国照彦天火明櫛玉饒速日命は、「天照御魂大神」を何よりも雄弁に物語っている。また、大歳御祖皇大神として祀られている神社も多く2)、皇祖神だったことは間違いない。

京都府宮津市に元伊勢籠神社がある。同社の説明によると、主祭神は彦火明命、亦名天火明命・天照御魂神・天照国照彦火明命・饒速日命とあり、相殿に豊受大神、天照大神が祀られている。

 同社の説明に、「極秘伝に依れば、同命は山城の賀茂別雷神と異名同神であり・・・。彦火明命は天孫として、天祖から息津鏡・辺津鏡を賜わり、大和国及丹後・丹波地方に降臨されて、これらの地方を開発せられ、丹波国造の祖神であらせられる。古伝に依れば、十種神宝を將来された天照国照彦天火明櫛玉饒速日命である云々。」とあり、

 由緒・由来には、「神代と呼ばれる遠くはるかな昔から奥宮真名井原に豊受大神をお祭りして来ましたが、その御縁故によって人皇十代祟神天皇の御代に天照大神が大和国笠縫邑からお遷りになって、之を吉佐宮と申して一緒にお祭り致しました。その後、天照大神は十一代垂仁天皇の御代に、また豊受大神は二十一代雄略天皇の御代に、それぞれ伊勢におうつりになりました。依って當社は元伊勢と呼ばれております。両大神が伊勢にお遷りの後、天孫彦火明命を主祭神とし、社名を籠宮と改め元伊勢の社として、また丹後国の一之宮として朝野の祟敬を集めて来ました」とある。


 さて、天照大神を祀る伊勢神宮の起原はどうであろうかと調べてみると、書紀には「活目入彦五十狭茅(垂仁)天皇二十五年、倭姫命が天照大神の教のままに伊勢國に祠立てたまふ。是を磯宮と謂ふ」とあります。しかし、これは女神アマテラスを祀る伊勢神宮の歴史を、より古くさかのぼらせて書いたもので、同神宮の由緒・由来書も、概ね記紀に書かれている内容にそって記述されている。

 伊勢神宮に祀られた女神天照大神は、もともと日向・筑紫(九州)の神で、九州には記紀が編纂される以前には「大日霊女貴尊」で祀られた神社は数カ所ありますが、九州以東では全く実在しません。

 伊勢神宮の女神天照大神の諡は撞賢木厳御魂天疎向津毘売尊、あるいは大日霊女貴尊で天照の片鱗もみられません。伊勢社(伊勢神宮の前身)の創祀は八世紀に書紀の編纂途上だったとするのが定説です。

 記紀の天照大神は、古代からあった饒速日(大歳)尊の天照魂大神の横領です。何故そんなことをしたのかは推して知るべしです。記紀は大和朝廷を乗っ取った連中の創作だからです。

 古代の政(まつりごと)、つまり政治・統治は、何と云っても神祀りが基軸であり、大和国時代からの皇祖天照魂大神を主神にしていたのでは多くの朝臣や豪族らを容易に手懐けられません。だから、それまで大和国と関係のない、しかも大和には神社もない神を位置づける必要があったのです。

 それが日向の伊弉諾尊の娘であり、須佐之男尊の妃だった向津姫(むかつひめ:記紀の女神天照大神)なのです。


 ところで、能・謡曲は古くから上流階級や武士の嗜みの一つだった。私も学生時代に数年、観世流の謡曲を習い、今も続けている。

 そのなかに「三輪」というのがあり、そのキリ(謡いの最後)の一節に、「思えば伊勢と三輪の神。思えば伊勢と三輪の神。一體分身乃御事、今更何と磐座や・・」とある。この一節は、「三輪」のなかでも小謡と云って聞かせどころである。作者は世阿弥(1363〜1443)で、室町前期の能役者、謡曲作者16)である。

 つまり、「天皇家の祖神で太陽神の伊勢の天照大神と三輪山の大物主神は、実は同体であったことなど、なぜ今更あらたまって云う必要があるのか。分かりきったことではないか。三輪山には磐座が在るではないか」と云うのです。こうした伝承を、能楽者たちは当時から大まじめに語り継いでいたことになる。

 能・狂言は、漂泊する民の芸能が発達したものとされ、彼らは好んで鬼を舞い、怨霊の思いを語り継いできた歴史がある。思えば、彼らこそ鬼の末裔であり、鬼の正体や無念をだれよりも深く知り抜いていた人たちである。ここに物部(祖神・饒速日尊)という鬼の残した古代の息吹きを感じずにはいられない。そして、社会の裏側に潜伏した彼らの底知れぬ潜在力と深い歴史に、驚きを禁じ得ない66)というのである。

 私は、ニギハヤヒを祀る桜井市三輪の大神神社天理市の石上神宮に参拝をかねて神社の縁起や由来を確認してきた。

 大神神社では、春の大神祭で毎年4月10日に後宴能が奉納され、縁の深い「福の神」と「三輪」が代々世々と上演73)されていることを知った。

 石上神宮では、布留御魂大神(ニギハヤヒ)、布都御魂大神(スサノオの父)、布都斯御魂大神(スサノオ)、ほか四神が祀られ、11月22日に鎮魂祭が行われるという。この日は初代日本の統一者・二ギハヤヒの命日でもある。現在の皇居でもこの日に鎮魂祭が執り行われるという。記紀が、いかに歴史を歪曲しようとも、皇室は二ギハヤヒを皇祖神としてちやんと祀っている13)という。


 また、古史古文の一つに、「秀真伝(ホツマツタエ)」というのがある。ホツマツタエは、古代大和ことばで綴られた一万行に及ぶ叙事詩で、縄文後期中葉から弥生、古墳前期まで、約一千年の神々の歴史・文化を今に伝えている。

 作者は、前半天の巻・地の巻を櫛甕玉命(櫛御方命)が、後半人の巻を大田田根子が編纂・筆録と記されたしている。何れもニギハヤヒの後裔である。

 そのなかに、天照神(ニギハヤヒ)の諭しことばととして、「よくよく思えよ。命と云うものは、身の宝である。これを諺にするとよい。萬世の君も、命はたった一つで取り替えることはできない。寿命をまっとうしないで、神上がるときを待たずして死ねば、魂の緒は乱れ苦しみ天界の宮居に復帰することはあたわない。寿命を保ち天に還るときは、楽しみながら身罷ることができるであろう」という前文があって、次ぎにココナシ(菊)の諭しの言葉が続く。

 「菊のように美しく清らかな心身となって身罷るのが一番よい。清らかな御食を食し万歳の長寿を得れば、身罷るとき匂いも菊の匂いになるというものである。遺骸はすぐに神々しい神の形となる。

 穢れた肉を食べていれば死んだとき匂いも臭く、魂の緒も乱れて苦しんでしまう。それを解くには祓いと日の霊気がよい。菊は日月の霊気を両方兼ね備えた植物であるので、食べれば目が明らかとなり、天御祖神の瞳と感応して、天界に帰幽することができるのである。

 天の道に従い清らかな食物を食む人は神が相求める。それゆえ、古来から菊を愛でる風習があるのです」と。

 ところで、皇室の御紋は菊で、警察の紋章も菊をかたどった紋章である。

 ニギハヤヒの後裔、物部氏は代々天皇家の祭司、朝廷の警備・警察の役割を担ってきた歴史がある。菊の御紋の起原は、ここにあったことを知らされた。

 ニギハヤヒを祀る奈良県桜井市三輪の大神神社(祭神:大物主大神=ニギハヤヒ)や石上神宮(天理市布留町)では、やはり菊の御紋を掲げている。


 書紀も注意して読むと、「天照大神は、一書にいわく、大日霊貴とも・・・」とあり、大日霊貴が天照大神だと言い切ってはいない。「一書に、そう書いてある」と、逃げ道を残す強かさを見せている。史実を改竄した責任逃れとみてとれる。

 古代の陰陽の考え方は、男性は与えるものであり、女性は受けるものであるという不文律がある。太陽は与える者で男性の象徴であり、月こそ女性の象徴なのである。従って、陰陽道からみても大日霊女貴は絶対太陽神にはなり得ない14)という。

 古い時代に祀られた神社には天照大神という祭神名は無く、殆どは大日霊女貴になっている。大日霊女貴を主祭神とする主な神社には、枚聞神社(鹿児島県揖宿郡開聞町)、揖宿神社(指宿市東方)、天岩戸神社(宮崎県西臼杵郡高千穂町)、日原神社(島根県大原郡)、天津司社(山梨県甲府市)などがある。いずれも祭神は日向系の女王だったようで、その諡号は撞賢木厳御魂天疎向津毘売尊(ムカツヒメ)となっている。

 本来の皇祖神だったニギハヤヒは、「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」の尊称を与えられているのに対し、天照大神にしては寂しい諡号である。

 巫女は、霊女とも書いたが、それに日を加えて太陽神に仕える「日霊女」としたものである。記紀で云うアマテラスも太陽神に仕える巫女だったのであろう。

 ニギハヤヒ(饒速日)は、若かりし日のオオトシ(大歳)だったことは一般にあまり知られていない。それは無理もない。記紀が神名を改竄し、史実を抹殺してしまったからである。

 ところで、昭和初期以前生まれの人々には、大国主と云えば「因幡の白兎」神話に登場する慈悲深い神様、国造りの神様というふうに教えられた。また、「出雲の国譲り」神話では、大国主は国譲りと引き替えに、大きな社を要求し、そこに引き籠もることになっている。そして、大国主大神を祀る出雲大社は今も立派な神社である。

 なんと、その出雲大社の創建は、奈良時代初頭の霊亀二(716)年だったことがわかった。ちょうど、古事記(712年)と日本書紀(720年)の成立の中間に創建されたことになる。大穴牟遲命(大己貴命)こと、大国主が亡くなってから800年も経った後のことである。

 大国主命の別名として、古事記では「大穴牟遲神」、「葦原色許男」、「八千矛~」、「宇都志国玉神」。日本書紀では、「大物主神」、「国作大己貴命」、「葦原醜男」、「八千矛~」、「大国玉神」、「顕国玉神」とあり、それぞれの神名から多様な性格が連想され、一つの神ではなく、複数の神々を統合したもの49)とみられている。

 記紀の記述に邪魔な神々を出雲に葬り、その代償として出雲大社が建てられた79)とみられ、出雲大社は今でも壮大なものである。幾度も再建されたもので、創建当時はどんな大きさだったか不明であるが、宝治二(1248)年に造営されたとみられる記録では、大きさは高さ三十二丈(96m)、今の4倍もあったという。出雲国造家に残る古文書に、「柱を三本金輪で束ね、その太さが一丈(約3m)」という、驚くべき巨大本柱を中心に九本で建造されていた76)と云う。

 ともあれ、出雲大社は記紀神話に合わせて創建されたことは間違いない。そして、スサノオやオオトシ(ニギハヤヒ)はじめ、出雲系の神々とその偉業を一括りにして傀儡の大国主を創作し、出雲に流竄したのだ79)ともみられている。

 

 詳細は、「日ノ本王朝・大和王国 建国の覇王・大歳(饒速日)尊の偉業」をご覧下さい。


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 記紀に改竄された古代史の真相を糺す