須佐之男尊(スサノオ)は弥生の和国王だった

 記紀の神話で有名な須佐之男尊(素戔嗚尊:スサノオ)は、イザナギ・イザナミの子神で、天照(アマテラス)大神、月読(ツキヨミ)命を三姉弟としているが、これは嘘だった。そして高天原でスサノオの乱行が過ぎるので根の国に追いやったとしている。

 「・・・故、其の父母の二~、素戔嗚尊に勅く、汝甚無道し。以ちて宇宙に君臨たるべからず。固に當に遠く根の國に適ね。遂に逐いき」68)と。スサノオを、遠く根の国に追いやったと書いている。

 根の国というのは、日本古代の他界観の一つで、死者の霊が行くと考えた地下の世界、また海上彼方の世界。底の国。黄泉。黄泉の国。根堅州国とも云う16)。日本書紀を穿って読めば、「スサノオの史実を葬った」と、はっきり記していることに気付く。

 しかしスサノオは、古代からある神社に数え切れない程に数多く祀られている。そして、そこに伝わる縁起や伝承は、スサノオの活躍や偉業を今に伝えている。

 スサノオの別名(改竄された神名)・大山祇(大山積 大山津見)神を祀る神社は、全国に一万一千社もある。その総本社は愛媛県今治市大三島の大山祇神社だという。同神社の創建は、祭神の子孫・小千命で、神武天皇時代というから最も古い神社で、伊予国一宮で国幣大社だった。小千命は神武天皇の時代に「小千国主に任じられた」とある。小千国は、現在の愛媛県越智郡とみられる。

 また、スサノオを祭神として全国に三千社もある天王社、その総本社は愛知県津島市の津島神社だったということが尾張名所絵図にも出ている。第7代孝霊天皇のとき西海の対馬に祀られ、欽明天皇(29代)の御代(540年)に津島に奉遷されたとある。

 一条天皇が津島神社に天王社の号を贈られる200年ほど前、大同5(810)年正月、嵯峨天皇は、「素戔嗚尊は即ち皇国の本主なり、故に日本の総社と崇め給いしなり」として、「日本総社」の号を奉られた23)810年と云えば、その90年も前に日本書紀が撰録されていて、記紀にある惨めなスサノオ像は、すでに誰の眼にも明かだった筈なのに、嵯峨天皇はわざわざ新年にスサノオを「皇国の本主」と讃えて「日本の総社」と崇められたというのである。


 中国の史書・宋史 卷四九一 外國伝 日本國の条に、「雍熈元年、日本國の僧・「然、其の徒五・六人と海に浮かんで至り、銅器十事并びに本國「職員令」・「王年代紀」各一卷を獻ず」とあり、王年代紀の第18代には素戔嗚尊が記され、24代に磐余彦尊が名前を連ねている55)。磐余彦尊は記紀では初代・神武天皇である。

 宋史は中国の正史の一つで、1345年完成した宋代の歴史を記録した紀伝体の書16)で、雍熈元年は、北宋(960〜1127)の年号で、日本の永觀二年(984年)にあたる。

 「然は三論宗の東大寺僧で、平安京の西の愛宕山に伽藍を建立するため、中国の天台山・五台山への巡礼を企図し、この前年、呉越の商人、陳仁爽、徐仁満の船に便乗し、中国への渡海を果たした僧で、その時47歳55)という。

 古事記は和銅五年(712)、日本書紀は養老四年(720)にすでに成立して264年も経った時期である。にもかかわらず、この王年代紀は記紀のいずれとも異なる系譜を記している。

 中国は他国の王年代紀を改竄して記す筈もないし、僧「然の持参したものは信頼出来ると考えられ、スサノオは国王として存在したことを明らかに証明している。

 記紀の云う皇国の本主は、もちろんアマテラスで、日本の総社は伊勢神宮の筈であるが、その後もスサノオは、天皇にとって如何に重要な存在だったかを物語っている。

 同時に、天皇はもとより当時の人々にとって、記紀は全く無視されていたのではないか。少なくとも、まともに取り扱われていなかったのではないか。そんな疑念を抱かざるを得ない23)

 スサノオはこの他、多くの須佐神社の祭神として、また全国津々浦々の神社で祀られている。ここで、その縁起や伝承からスサノオの活躍や偉業を概観してみよう。


 スサノオは、出雲でオロチ(高句麗)族を退治し、虐められていた原住民の娘・櫛稲田姫を助けて娶り、須賀の地に館を構えた。そして、出雲国を建国した後、越前、加賀、能登、長門、筑前、豊前にも遠征し、国家統合の交渉にあたった。小部族国が乱立して争っているよりも、話し合いで大同団結し、住みよい国づくりを目指したとみられる。

 伴 昌広氏2)は、このときスサノオが建国した国名は輪国ではなかったかとみているが、私は和国だったと思いたい。中国の史書は、発音の似た倭国と書いている。

 スサノオの建国した和国は、現在のような中央集権国家ではなく、豪族の連合であろう。82年頃に書かれた中国の史書・「漢書」地理志によると、「樂浪海中有倭人、分爲百餘國(倭人は楽浪海の中に在り、百余國に分かれる)」とあるように、多くの国に分かれていた国々の連合体とみられる。

 スサノオは、紀元前37年、朝鮮半島に在った沸流国が、北方からの度重なる侵攻で滅亡したとき、戦いに疲れ、嫌気した布都一族が日本列島に移住した2)子孫として出雲で生まれた13),23)とみられている。だからスサノオは、殺し合う戦乱の愚かしさを父親(布都)からいやという程聞かされていたのであろう。話し合いで共存共栄の道を探るというのが、スサノオの国づくりに賭けた信条だった。スサノオにとって、「和」はいかに重要かは肝に銘じたものだったであろう。

 しかし、話し合いで統合に同意の得られなかった部族集団もあったようで、本格的に九州侵攻を開始し、武力も行使したようである。北九州の古代遺跡・吉野ヶ里遺跡(紀元前3世紀〜3世紀)から発掘された甕棺には、腰骨に剣の刺さったものや首のない遺体が発見され、戦闘の痕跡を物語っている。

 スサノオは豊前に上陸し、瞬く間に筑前・筑後、豊前・豊後を服従させて統治下に入れた。そして、筑紫は同行していた息子・オオトシに統治を任せ、自身は部下をを従え豊国の宇佐(大分県北部)に拠点を置いた51)とみられる。

 北九州を統一した後、日向族の中心地、阿波岐原に遠征し、国王・イザナギに和国への統合を迫った。このとき、王妃のイザナミと娘・向津姫(大日霊貴:記紀の云うアマテラス)は同意したものの、イザナギとその部族はこれを拒絶して戦った。しかし、イザナギはあえなく敗北した。スサノオは、イザナギの命は助けて淡路島に流した。

 その証拠は、淡路島の伊弉諾神社(兵庫県津名郡一宮町)に残っている。同社に伝わる淡路国津名郡淡路町岩屋字明神の縁起に、「伊弉諾尊は淡路島の多賀の地に幽宮を構えて余生を過ごされた。その御住居跡に御陵が営まれ、至貴の聖地として最古の神社が創始されたのが当神社の起源である」とある。日向の豪族だった筈のイザナギが、淡路島で余生を過ごしたというのである。

 その後、スサノオは拠点を宇佐から日向の西都に移し、九州を統治するようになった41)とみられている。この時、熊曾地方だけは統一に失敗したようである2)という。

 南九州に侵攻しイザナギには勝ったものの、日向族の気持ちを和らげる必要もあり、スサノオはイザナギの娘・向津姫を娶り、現地妻にした2)とみられている。記紀の云うアマテラスである。

 スサノオは出雲を振り出しに、山陰から北陸、瀬戸内、中四国、そして九州諸国の一部を除いて平定・統合し、連合和国の建国に成功した。国情がほぼ安定したのを見定めて、末娘・須世理姫の婿・大己貴(古事記:大穴牟遲)に政務を継がせ13)、南九州の統治は、二代目出雲国王・大己貴(大穴牟遲)命と向津姫に後を託した。そして、筑紫を統治していた三男・オオトシに大和東遷を命じて、西都(日向)の政庁を引き揚げ、故郷出雲に帰国した2),13),23)

 スサノオが出雲に帰ってからも向津姫は度々、出雲に出向いた形跡がある。末子・熊野楠日(鵜葺草葺不合=記紀の神武天皇の父)命は、その名前からみて、スサノオが出雲に帰ってから向津姫との間に出来た御子ではないか2)と見られている。


 スサノオと向津姫(記紀のアマテラス)が夫婦関係にあったとみる史料に、島根県松江市佐草町にある八重垣神社の壁画がある。

 八重垣神社は寛平5(893)年、宇多天皇が出雲国庁を造営したときに描かれたもので、当時の日本絵の巨匠・巨勢金岡が書いたという。

 何と、そこには素戔嗚尊とその正妻・櫛稲田姫、天照大神、市杵島姫命、足名椎、手名椎の六神像が雄渾な筆遣いで描かれている。神社建築史上、類のない壁画とされ、重要文化財になっている。

 八重垣神社は、在りし日の若きスサノオと櫛稲田姫の愛の館であり、その二人を中心にして櫛稲田姫の両親(足名椎、手名椎)が描かれているのはわかるが、記紀では敵対関係だった筈のアマテラスが同居し、市杵島姫までが描かれている。スサノオとアマテラスの夫婦関係は、記紀では隠されている。

 ともあれ数年後、北九州地方を猿田彦にまかせて出雲に戻ったスサノオは、三男・オオトシに大和に東遷して近畿以東を統一するように遺言して他界した2)と推定され、齢60〜75才だった13),23),51)とみられている。スサノオの長男の諡号は、清之湯山主三名狭漏彦八嶋野尊68)とあることから、猿田彦は八嶋野命の別名かとみられる。

 スサノオの長男・八島野命は、スサノオの亡骸を島根県八束郡八雲村と広瀬町との境、熊野山(又の名・天狗山、熊成峰)の山頂に葬られた51)とみられる。

 この御神陵は、八雲村大字熊野にある元出雲国一の宮・熊野大社の元宮とされている。熊野大社でのスサノオの祭神名は、神祖熊野大神櫛御気野尊という諡号で祀られている。熊野山の御神陵と熊野大社の祭祀は、スサノオの神裔・出雲氏によって継承され、現在に到っている51)という。

 神一行氏は、スサノオの最期を、出雲に戻って間もなくのことだったとして次のようにみている。

 人々は、大王スサノオの死を悲しみ、出雲の熊野山に磐坐を造って祀った。いま、その麓に出雲国一宮・熊野大社(旧国幣大社)がある。出雲大社が出来るまでは、出雲地方最大・最高の神社だった。亡くなった場所はやはり出雲で、それも若き日に稲田姫と新居を構えたあの須賀の都と山一つ隔てた八雲村熊野だった。勿論、彼の御陵はここにある。スサノオが亡くなると、人々は熊野山に磐座を造ってお祀りし、その後、お墓に社を建てた。これが、いわゆる神社の創成時代となり、熊野でも社殿が築造された13)

 スサノオは、諸国を統一して国造りに努めただけでなく、その地の人々の生活向上に心を配り、様々な事柄を開発・創始した。

 須賀の都に市場を拓き、熊野山の檜とうつ木で鑽火器も創作した。熊野大社は別名を日本火出初社とも称され、境内に鑽火殿があるという。彼はまた、田畑を荒らす鳥獣を射るために初めて竹で弓矢も作った。その故事に因んで今も行われている御狩祭は、後の徳川綱吉の時代の「生類憐れみの令」で狩猟禁止になったときも、特例をもって許されたお祭である13)という。

 また、子供や部下たちを各地に派遣して土地開発や殖産興業を奨励し、人材を適材適所に登用する優れた指導者でもあった。

 神祖とは、神のなかの神、それは日本の国の創成者であり、文明の大始神を意味するとともに、死して神と化していった我々の祖先神ということであろう。スサノオは、まさしく我が国史上、最初にして最大の英雄だった23)

 天皇神社、天王社に祀られた皇国の本主・第十八代国王、スサノオ尊はまさしく和国建国の始祖王だった。神祖として崇められたスサノオ。嵯峨天皇は、いみじくも「皇国の本主」と尊称したように、日本国の創世者として、すべての神の祖神として祀られた13)のである。

 しかし、記紀はスサノオを初代天皇または天神としなかった。ムカツヒメ(大日霊女貴尊:アマテラス)とは夫婦だったが血縁関係がなかった。そして、スサノオの御子・オオトシ(ニギハヤヒ)は、日ノ本王朝・大和王国を建国し大和朝廷の始祖となったが、磐余彦尊(記紀の初代・神武天皇)を婿養子として迎えたから、万世一系の皇統にならなかったからであろう。

 さらに云えば、記紀の編纂当時は持統女帝(W野讃讚良)だったから、女帝の正統性を強調するために女神・アマテラスを皇祖神にしてしまったのであろう。これは、藤原不比等の差し金だったことは云うまでもない。

 スサノオは、南九州の統合にはやむなく一部で武力を使った。そのためか、南九州の人々にスサノオに対する反発が残り、この地方には出雲式の銅剣・銅矛祭祀の遺跡がなく、スサノオを祭る神社も少ないという。そして、このことがスサノオが、記紀に暴れ神にされた一因ともなった2)かとみられている。

 しかし私は、須佐之男尊が記紀で史実を消されたのは、和国建国の始祖王だったこと。それを受け継いで御子大歳(饒速日)尊が建国した大和国を乗っ取った百済族としては、須佐之男尊や大歳尊の偉業を消すしかなかったものと思う。

  ともあれ、詳細は「和国建国の始祖王・須佐之男尊」 を、また「大和国建国の覇王大歳(饒速日)尊」をご覧下さい。


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 記紀に改竄された古代史の真相を糺す