荒川荘野田原村と薄木大明神

ー古文書解読と古神社の縁起で辿る古代・中世の野田原ー

 本稿は高野山文書等に残る古文書を中心に、古代・中世の荒川荘野田原村を巡る記録や古神社の縁起・伝承をもとに、薄木神社とその祭神薄木大明神について考証したものです。

 引用文献・参考史料は各文末に( )書き、または文献番号を付記しました。引用文献のうち古事記・日本書紀双方をさす場合は記紀、日本書紀は書紀と略記します。

 なお、弥生時代から大和時代にかけての西暦年は、コンピュータ画解析によって得られた古代人の「古墳と稜主16)」で解読された墓碑の没年干支、没年令から比定したもです。また、BCは西暦紀元前の略です。

野田原の地名 高野山領荒川荘野田原村 薄木神社の歴史 祭神・薄木大明神 大和国を建国した
薄木大明神
薄木大明神(大歳尊)
の偉業
祭神名が改変された背景 改竄された神社の祭神名 荒川荘の豪族・平野氏 平野氏の館跡
野田原の
平野八郎左衛門將範景
高野山年貢に
苦しめられた百姓
大将軍社のこと   引用文献・参考史料

【野田原の地名】             2010年09月13日 :更新

 荒川は古代には荒河と書かれ、和銅五(712)年撰上の古事記の崇神天皇(16419816))記に、「木国造、名は荒河刀弁の女・遠津年魚目目微比売(158〜19416))が妃となり云々20)」とみえ、正倉院文書の天平十七(745)年九月二十一日付け仕丁(人夫)送分に、「紀伊国那賀郡荒川郷戸主・日置造白麻呂35)」とみえます。

  そして、「荒河郷酒米五斗」と書かれた木簡が平城京跡から出土したことから、奈良時代に荒河郷から平城宮に酒米が届けられていたことが裏付けられています。したがって、荒河郷の歴史は古く、少なくとも二世紀以前から存在したとみられます。


 江戸時代の天保十(1839)年に撰上された紀伊續風土記(以下、風土記と略記)によると、「安楽川荘十四箇村のうち野田原村、小名、光長・中邑・神縄掛。村名は高野山所蔵の延長七(929)年の文書にあらわれる。

 また文保二(1318)年の文書に野田原下村南垣内の名あり。今の所垣内を云うか。當村、古くは野田八郎と云う者の領せし地と云う14)」とあります。

  しかし、多くの古文書を通覧しても、「野田八郎」は全く登場しないことから、「平野八郎」か「野田原八郎」の誤記とみられます。

 後項でもみえるように、野田原の平野八郎範景は、野田原八郎範景と自称していた文書がみえます。


 同地在住の中西晃氏によると、今から八百年程前に野田原八郎と云う人が神縄掛の地に居城を構えていたという伝承があり、彼はこの地を開拓したことから野田原という地名が出来たと伝えられている3)と云う。

 野田原の村名は、少なくとも延長七(929)年、平安時代前期の文書に登場する14)とあるものの、いつ誕生したのかは不明です。

 地名の由来についても確証はないが、古代から当地の領主とみられる平野氏が拓いた田原、つまり「平野田原」が訛って野田原と呼ばれるようになったとも考えられます。

● 本サイトについてのご意見・お問い合わせはこちらからお願いします。


 次のページへ

 (2009年7月25日、初版発行)