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更新:2007年10月07日 |
| 要 約 | 出自と系譜 | 在世年代 | 大歳を改名・饒速日に | 神社が語る | 筑紫から大和へ |
| 東遷部隊の面々 | 大和建国の偉業 | 考古史料 | 饒速日尊の死 | 皇祖天照魂神 | 饒速日尊の死後 |
| 饒速日尊系図 | 在世年代図 | 関連年表 | 出雲・大和一族の系図 | 日向一族の系図 | 引用文献・著者 |
| 【大和国創建の偉業を偲ぶ】 | ||
●政祭一致の国づくり
神社伝承を元にした歴史資料は、スサノオが統一者となって、武力平定したように考えられがちであるが、武力のみでは人々の反感・反発をさけることができない。かつて、朝鮮半島での戦乱で苦い経験をして日本列島に逃れてきた布流一族2),14)だから、スサノオも、その父や一族から十分に和の重要さについて教訓を受けていたのであろうし、オオトシも父からそれを受け継いだであろうとみられる。 ニギハヤヒの建国した大和国は、北九州から中四国・播磨・河内等、各地の首長らが手弁当でニギハヤヒ大王を擁立して支えたもので、ニギハヤヒは独裁王ではなかった。いわば首長らに擁立され支えられた祭司王であり、偉大な調整役だったとみられる。 武力で強引に国を統一した場合、統一王朝が衰退したとき、かつて征服された勢力が新王朝を倒そうと謀り、王朝交替がくり返される。権力者もそれを防ぐため、堅固な守りをする筈である。 しかし、宮城跡はほとんど無防備で、王朝交替が起こった形跡は見当たらない。周りの豪族にもほとんど変化が見られず、継続しているのは何故だろうかとして、以下のようににみている。 王朝の交替が起こると、周りの豪族に大きな変化が起き、前王の血筋が絶え、代わりにどこからか遠縁の王を招いたかも知れないが、はっきりとした形で王朝交替があったとは考えられない。また、集団戦の跡と思われる遺跡がほとんど存在しない。弥生時代は比較的平穏な時代だった2)とみている。 武力統一の場合、中心域から徐々に周辺に勢力を拡大し、日本全土を統一するには相当な年月がかかり、少人数では出来ることではない。中心になる国が堅固な国家体制を充実させておかなければできることではない。 まだ国家体制も十分整っていない時代には武力統一はあり得ないことであったろう。さらに、畿内に九州系の土器や墳墓がほとんど存在しないという。 統一国家の中心地となった大和は、朝廷成立以前は北九州地方に比べて未開地で、遺跡・遺物も貧弱である。このような地に、なぜ中心地ができたのであろうかとして、次のように考察している。 武力統一なら、北九州勢力が中心となって行われたと考えるのが自然である。北九州勢力が統一を決行し、畿内に東征したという説もある。だとすれば畿内に九州系の土器や墳墓が多く見つからなければならないが、全くと言っていいほど見つかっていない2)という。 これは、九州からは少人数しか来ていないことを意味し、武力を使う以上、相当の人数や装備を揃えなければならず、多量の九州系土器の持ち込みがある筈で、また武力制圧後も九州系の持ち込んだ文化が強く残る筈である。それが全く出土しないことは考えられない。 畿内に、どこかの地域の土器や墓制が集中して多いということもない。これは、どこか外部の勢力が大挙して畿内に侵入し、そこを中心として全国統一をしたものでないことを意味している。侵入があったとすれば、あくまでも少人数である2)とみている。 弥生時代の後期初頭を最後に、権力君臨型の王墓が消滅し、かわりに祭祀型の王墓と考えられる四隅突出型墳丘墓や方形周溝墓(出雲式)が広がっている。これは、権力によって支配していた小国家群が何らかの宗教によって統一されたと見られる。宗教統一なら、少人数で遺跡・遺物の少ない大和を中心として国家統一をすることも可能だった筈だ2)というのである。 したがって、古代の大和朝廷は、「政祭一致」の政策をとったとみられる。古墳の築造にも多くの労働力を要し、権力にものを言わせるか、信仰の力を使うしかない。だが、古墳上で祭礼が行われていることからみて、明らかに信仰の力を使っったとみえる。これは古墳の分布範囲に、同一の強力な信仰が存在したことを意味し、朝廷が宗教によって統一され、権力によって君臨したのではないことを示している2)という。 武力統一した場合、征服された側には朝廷に対する反発心が強く残り、信仰によっても人々を動かすことは出来ない。権力にものを言わせて人々を押さえつけるしかない。したがって、宮城は反乱に備えて警備が厳重になり、また地方の権力者の邸宅も厳重な警備の上に成り立っている筈である。それが全く出土しない。出土した地方の権力者の住居跡と思われる所もほとんど無防備で、後の大和朝廷の性格とは全く異なる2)という。 古代は、地方でも神に対する信仰心が浸透しており、地方権力者も神の扱いを受けて政治を行っていたのではないか。だから、ニギハヤヒの大和は宗教によって全国統一したと考えられるというのである。 ところで、一口に宗教統一と云えども、特定の人物がある教えを説いたとしても、地域差の大きい当時の日本列島が、単純に一つの信仰にまとまるとも思えない。また、侵入先に別の宗教が存在すれば、宗教同士の戦いとなる。 宗教的に国家統一を図るには、宗教的に未開であること。だが、弥生時代といえども、各地方に若干の宗教的なものは存在したであろう。それらを取り込んでしまうには、人々に神の存在を信じさせるような具体的な何かが必要である2)というのである。それが、米作りや養蚕・機織り、病気の治療等、住民生活に密着した技術だった筈である。 ニギハヤヒが執った手法は、スサノオはじめ先祖の神々を神籬に降臨して祀り部族を集めて政 (まつりごと)を治世の根幹にしたとみられる。●王都・大和建設と開発 ニギハヤヒは、大和の地で多くの開発や都造りの建設をすすめた。小椋一葉氏23)はそれを次のように推測する。 道を開くと同時に、河川の開鑿(かいさく:土地を切り開いて道路やトンネル、運河など通路をつくること)にも力を入れた。出雲から九州、そして中・四国、瀬戸内までの地理経験をもつニギハヤヒが最も恐れたのは、山に囲まれた大和の閉鎖性だった。西からの最新技術や文化を導入するには、何よりもまず河川を整備しなければならない。 奈良と大阪を結ぶ大動脈は、何と云っても大和川である。関西線開通によって使命を終えるまでは、奈良盆地と大阪方面との物資輸送の一大幹線路の役割を担っていた。大和川の開鑿は、やはりニギハヤヒ時代に着工されたとみられる。 山の辺の道を南に辿ると、金屋に日本最古の市場・海柘榴市(つばいち)がある。これも三輪山の麓を流れる大和川、初瀬川の水路終点に開かれている。初瀬川の水路も海柘榴市も、大神神社の地にニギハヤヒの館があったからこそ、開鑿されたことは間違いない。 この海柘榴市は、その後もずっと栄えた歴史がある。推古天皇15(607)年、遣隋使・小野妹子を送って来朝した隋の使者・裴世清(はいせいせい)らは、難波から大和川をのぼって海柘榴市に上陸したことが記されている。 日本最古の道、最古の市場、初瀬川の水路が、みな大神神社を起点としているのは、ニギハヤヒの宮殿を中心に手足の如く発展していった古代の様子が彷彿と甦ってくる。 今に伝わるこれらの偉業は、武勇のみならず政治手腕、その指導力も抜群だったニギハヤヒの並々ならぬ才能の一端を、我々にありありと見せてくれている23)。 ●民衆の生活・健康問題も重視 都造りに情熱を注いだニギハヤヒは、そればかりか、住民の日々の暮らしにも細かく心を配っている。 稲の生育、その稔りを表す「歳」という名で呼ばれたほどの彼は、米作りに尽力した証は、島根県三刀屋町に1800年も経ったいま尚、彼の名前のついた「大歳新田」が残っていることは、すでに述べた。まさに、生きた化石である。 また、食糧の確保とともに、古今東西を問わず、人々の関心事は病気の平癒、健康問題である。 大神神社では毎年4月18日に鎮花祭(はなしずめのまつり)が行われる。神前に薬草を供え、春の花散る頃、即ち人々の一番気のゆるむこの時期、疫病の発生を鎮める有名なお祭りである。 この起原は、遠く崇神天皇の時代に遡るという。疫病が流行したそのとき、天皇は早速、大王の神前に「忍冬:ニンドウ」・「百合根」など、薬草を供えて祈られた。それが今日まで絶えることなく続けられているのが鎮花祭だ23)という。 崇神天皇がこうして薬草を供え、大神神社に祈られた背景には、やはりニギハヤヒのそうした事績ががはっきりと伝えられていたからに違いない。 ちなみに、今から1200年も前に編纂された「大同類聚方」に、大歳神社に伝わる薬が記載され、その製法や効能が述べられているという。おそらく、それら薬草や薬の製法は、ニギハヤヒ時代に研究開発されたに違いない23)とみている。 「崇神天皇の治世のとき、恐ろしい伝染病が流行った。天皇は深く神を祀って尋ねたところ、オオモノヌシ(ニギハヤヒ:大物主)が現れ、病が流行るのは私の憂き心の現れだ。大田田根子(オオタタネコ)を召して、私を祀れ。さすれば祟りは消え国に安寧がもたらされるだろう。・・・と。 天皇は早速、オオタタネコを召し、神主として御諸山(三輪山)で祀る。・・・と、たちまち伝染病は消え去り、世間は平穏を取り戻した」という逸話が古事記44)に記されている。 大物主神の祟りを恐れ、神を崇拝した御真木入日子印恵(みまきいりひこいにえ)44)がが、後に第10代崇神天皇と称されるようになった訳が頷ける。 余談になるが、人は誰でも耐え難い苦難や判断に苦しむ事態に直面したとき、神仏の加護を願って祈る。これは、いずれの国民も、いつの時代でも変わりはない。激務のうえ、あれこれと判断に苦しむようなときも神仏を拝んで心を静め、正しい判断をしようと努めるものである。 そして、自らを間違いなく、「私を、どうか相応しくお使い下さい」と祈るのである。私は、いずれの宗教や信仰も、そのためにあるものだと思っている。 激務のアメリカ大統領・ブッシュも執務室にキリストを祀って、毎日のお祈りを欠かさないというし、前総理大臣・小泉純一郎首相は、中国や韓国からとやかく云われながらも、靖国神社の参拝を止めない気持ちは理解できる。他国の総理大臣が神仏を拝む行動に、一々口を挟むのも些か腑に落ちない。 古史古文の一つに、「秀真伝」というのがある。古代大和ことばで綴られた一万行に及ぶ叙事詩で、縄文後期中葉から弥生、古墳前期まで約一千年の神々の歴史・文化を今に伝えている。 作者は、前半「天の巻・地の巻」を櫛甕玉命が、後半の「人の巻」を大田田根子(ニギハヤヒの後裔)が編纂し、景行天皇に献上したもの78)とある。 櫛甕玉命はニギハヤヒの別名で、大田田根子は崇神天皇時代の大神神社の齋主68)である。時代錯誤もはなはだしいことからみて、これも記紀の偽作に合わせて改竄させられた可能性が高い。ただ、秀真伝えに登場する天照神は男神であるところが記紀と異なっている点に注目する必要がある。 ともあれ、その天の巻に、「天照神(ニギハヤヒ)の詔のり」という一節がある。現在文に読み下したものを引用すると、以下のようである。 「よくよく思えよ。命と云うものは身の宝である。これを諺にするとよい。萬世の君も命はたった一つで、取り替えることはできない。寿命をまっとうしないで神上がるときを待たずして死ねば、魂の緒は乱れ苦しみ、天界の宮居に復帰することはあたわない。寿命を保ち天に還るときは、楽しみながら身罷ることができるであろう」という前文があって、次ぎにココナシ(菊)の諭しの言葉が続く。 「菊のように美しく清らかな心身となって罷るのが一番よい。清らかな御食を食し、万歳の長寿を得れば、身罷るときの匂いも菊の匂いになるというものである。遺骸はすぐに神々しい神の形となる。 穢れた肉を食べていれば死んだとき匂いも臭く、魂の緒も乱れて苦しんでしまう。それを解くには祓いと日の霊気がよい。菊は日月の霊気を両方兼ね備えた植物であるので、食べれば目が明らかとなり、天御祖神の瞳と感応して、天界に帰幽することができる。天の道に従い、清らかな食物を食む人は神が相求める。それゆえ古来から菊を愛でる風習があるのです」78)と。 桜井市三輪にある大神神社(祭神:大物主=饒速日尊)の社紋は、皇室と同じ「菊の御紋」である。 ところで、警察の紋章も菊をかたどった紋章である。ニギハヤヒの末裔、物部氏は代々天皇家の祭司、警備・警察の役割を担ってきた歴史がある。皇室の「菊の御紋」の起原はここにあったことを知らされる。 ●暦の始まり ところで伴昌広氏2)は、ニギハヤヒが大和に入ってからの功績の一つに、「暦の始まり」をあげている。 近畿地方を統一し、日本(ヒノモト)国を作ったニギハヤヒは、安定政権ををめざして色々と努力した。唐古・鍵遺跡の中心と考えられる祭祀遺構に、「鶏」と見られる土製品が出土している。この地から冬至の日に三輪山の山頂から昇る朝日を見ることができることから、当時の人々が冬至の日に出てくる太陽を崇めていたことを意味する。 唐古・鍵遺跡が巨大化し始めたのがニギハヤヒが入ってきた弥生中期末頃と判断されているから、ニギハヤヒは農耕のための暦も広めたのではないかと推定する。 国家を平和的に維持するには、農業、特に稲作は重要な要素である。スサノオから受け継いだ手法により、大和盆地で稲作り作業をする時期を、日の出の方向から判断できるようにしたというのである。 当時、一年で一番重要な日は冬至の日だったろう。太陽が最も南から昇り、この日を境に太陽が復活する。ニギハヤヒは、三角形の山頂から太陽が昇ってくる姿が好きだったようで、冬至の日に三輪山々頂から太陽が昇ってくる位置に、唐古・鍵遺跡の小さな集落があった。 ニギハヤヒは、この位置に祭礼施設を造って祭礼行事を行い、それを元に農業を指導した。また、三輪山の形を日本国のシンボルとして、いろいろな祭器に刻み込ませた。これが、鋸歯紋(きょしもん:ノコギリ歯のように連続する三角形の文様。弥生時代から古墳時代に盛んに行なわれ、土器、銅鐸、鏡、古墳の壁画などにみられる)16)の始まりだ2)という。 つい最近のこと、ニギハヤヒの生まれ故郷でもある島根県の宍道湖近辺に住む方が、長老が語った話として、「出雲の住人は古来、朝日が昇ってくると、お日さまに向かい柏手を打って拝む習わしがあった。また、人に逢うと、『お日さまが上がらっしゃいました』。また夕方には、『お日さまが沈まりまっしゃいました』、というのが挨拶言葉だった」という話を聞いたことがある。太陽をこよなく崇拝したニギハヤヒ時代からの名残かも知れない。 ●河内・大和以東統一のスサノオの遺命を戦わずに達成 ニギハヤヒの東遷目標は、「近畿地方以東を統一せよ」とのスサノオの遺命の遂行だった。日本国の基礎固めのために15年ほどを費やしたが、この間に近畿地方はほぼ安定した。 この頃、まだ東日本は未統一で、東海方面から伝わる話では、多くの人々が住んでいて、小部族国家が少しづつ誕生してきていたようだ。このまま、成り行きにまかせれば日本国はいずれ、これらの国々との戦わなければならなくなると危惧した。早めに統一する必要性に駆られただろう2)という。 そして、大阪湾岸地方の人々に東日本地域の統一の必要性を訴え続けた。これまで、ニギハヤヒは近畿地方に新技術を導入した結果、住民の生活がが見違えるように変わり、人々から神のように敬われるようになっていた。人々の間には、ニギハヤヒの指導を受け入れ、東を統一しなければならないという意識が次第に育っていった2)とみている。 ニギハヤヒは、三炊屋姫(ミカシキヤヒメ)との間にできた宇摩志麻冶命(ウマシマヂノミコト)、天道日女に生ませた天香山(高倉下:タカクラジ)23)が大きく成長し、東日本に統一行動を起こす時期が到来したと判断し、大阪湾岸の人々を大勢引き連れて、東海地方をはじめ東日本一帯に新技術を広める旅に出た。それぞれの国を回り、住人に新技術を伝授する代わりに日本国への加盟を誘った。 現地の人々も、うわさ話で日本国(ひのもとのくに)の状態は、すでに知っていた。ニギハヤヒの伝える技術で生活が豊かになるとみた多くの国々は、次々と日本国に加盟していった。 日本国に新しく加盟した地域には、大阪湾岸地域から何人かを派遣して共同生活をすることにより、先進技術をその地の人々に伝えた。派遣された者たちも、現地の人々から神のように慕われて土着し、その地で亡くなった。その結果、出雲式の方形周溝墓が急激に広まったものだ2)とみている。 ニギハヤヒは、東日本地域統一後は再び大和に戻って日本国全体を統治した。晩年、末子のイスケヨリヒメが生まれた後、大和の地で没した23)。ときに66歳、BC81年頃とみられる。この頃から三輪山信仰が始まった2)と推定されている。 生前、三輪山から昇ってくる太陽を崇拝していたニギハヤヒは、三輪山頂の磐座に葬られ日本国の開祖、皇祖・太陽神・天照魂大神として人々から崇められた。 また、農業開発にも努めたので農業の神としても知られ、三輪山の山の神遺跡では小型鏡や子持ち勾玉、石製模造品、土器の他に、農具や食器を模した土製品が奉られた。そして、三輪山の形(三角形・鋸歯紋)がニギハヤヒのシンボルとして後のニギヤハヒ祭器(平型銅剣・大阪湾型銅戈・銅鐸)に刻み込まれることになったのだろう2)という。 ところで、「饒速日」の字意を解析すると、「饒」は、ゆたかで満ち足りていて不足のないさま。富んでいてゆとりのあるさま。豊富。「速」は、速度が高いこと。早いこと。また勇気があって勇ましいこと。多く、他の語と熟して用いられる。「日」は、太陽・日輪をさし、「速日」で太陽が早くあたこと16)を意味し、太陽を崇拝し勇気あることを信念に、自身の名前にしたニギハヤヒだったことが伺える。 ●和国を拡大して大和国へ 父・スサノオは、記紀では暴れ神にされてしまった。しかし、彼は争いを憎み、諍いを起こさず、話し合いで納得の政治をすすめて和(倭)国を創建した。スサノオの心を受け継いで和国から大和国へ、さらに東日本まで統一して大和朝廷の礎となった日本建国の覇王・ニギハヤヒの人柄が忍ばれる。 憎み合って、国盗りをして勝ったところで、その怨霊から、いつかはまた倒される。彼は未来永劫、豊で住みやすい国造りをめざした筈だと思う。それは一族だけでなく、住民の幸せを願う和の心だから。 出雲建国から始まり、西日本と九州の一部を除き、スサノオが統一した国名は、「環」だったのではないか2)というが、私は、「和」だったと思いたい。中国の史書・魏志倭人伝8),11),28)では、「倭」としているが、似た音に当て字したものである。 国語大辞典によれば、「倭」は、日本人の国。もと、中国での呼び方で(中略)、日本人も「倭・和」の字を自称に用いて通例は「やまと」と訓読しているが、室町時代頃には「わ」と音読して単独に日本または日本のものを意味する語として用いるようになった16)という。 ところで、中国では「倭」の字意はどうかと、中国の友人に尋ねてみた。すると、「隠」の意味に近いという。隠とは、人目につかないでいること。人に知られないでいること。人目につかない場所。人知れず隠れしのぶこと16)。などで、「恥ずかしがり屋」とか、「控えめ」、あるいは「引っ込み思案」といった意味が連想される。スサノオは、そんな国名を付ける筈はなかったと思う。 ●日本王朝・大和王国の誕生 先代旧事本紀や日本書紀に、、「この命(ニギハヤヒ)、天磐船に乗り天より下り降りる。虚空に浮かびて遥かに日の下を見るに国有り。よりて日本(ひのもと=やまと)と名づく」とある。ニギハヤヒは生駒山を越えて大和に入ったとき、「日本」を命名している。 時代はずっと後になるが、中国の「宋書」(488年成立)の記述をみても、日本から朝献に出かけた者が云ったこととして、「倭國は本の倭奴國也。自ら其の國、日出ずる所に近きを以って、故に日本を以ちて名と爲す。或いは云う、其の舊名を惡み之を改むる也と。」と書いている。 ニギハヤヒによって東・北日本まで大同合併し、初めて大和国と呼んだであろうと思う。スサノオが建国した和国を引き継いだ連合和国だからである。日本王朝・大和王国の誕生41)である。 ところで、東北の秋田県大仙市境字下台に唐松神社がある。境内にある唐松山天日宮の伝承について、「物部文書によると、物部氏祖神である饒速日命は、鳥見山(鳥海山)の「潮の処」に天降った。その後、逆合川の地・日殿山(唐松岳)に「日の宮」を造営し、大神祖神・天御祖神・地御祖神を祀った。 延宝八( 1680)年に、藩主・佐竹義処により山頂から現在地に遷座。今でも、唐松岳に元宮がある。饒速日命の居住した場所は、御倉棚と呼ばれ、十種神宝を納めていた三倉神社のある場所。饒速日命は、当地で住民に神祭・呪ない・医術を伝え、後に大和へ移った」という。東北の秋田あたりまでニギハヤヒの伝承が残っている他、地蔵田遺跡(秋田市南東部、御所野台地の南端)から弥生時代の遠賀川系土器が多数出土しているという。 ニギハヤヒは、オオトシ時代に筑紫を統治していて、福岡県の遠賀川の河口辺りから東遷を開始したとみられることから、遠賀川系土器を持ち込んだのであろうか。それとも土器職人が同伴して伝えられたものと思われる。 古代和語の一つ一つの音は、すべて意味を持っており、その音から意味が読みとれるという。「ヤマト」を解釈すると、「ヤ=多くのもの」、「マ=まとまりとか、丸い」、「ト=安定とか、とどめる」とか言った意味で、「多くのものをまとめて安定化させる」という意味になり、「連合国家の中心」と解釈される2)という。 中国の史書「三国志‐魏書・東夷伝・倭人条」に、「邪馬臺国・・・女王・卑弥呼・・・」8),11),28)とある。年代は、ニギハヤヒの死後のことである。その所在地については、北九州にあったとする説もあるが、「ヤマト」と読めるし、後漢書には、「倭面土国」という表記も見られ、これこそ「ヤマト」の発音を、中国風の当て字で表記したもの9)といわれている。 中国の知人によると、「邪馬臺国」の「馬臺」は、放飼している馬を指揮、指示する臺(台)という意味だという。連合国家の朝廷という意を込めての表字のようにもとれる。 ニギハヤヒは、父・スサノオが蒔いた種を見事に発芽させた。彼の努力がなければ、大和朝廷の成立もずっと遅れたに違いない。 かくして、大和は静かに日本という国家発祥の地となった。この地に楔を打ち込まれたことで、原住民・アイヌの南下をくい止め、初めて日本列島は統一の基盤を得たからである23)。 これまでにみてきた、スサノオ、ニギハヤヒ父子の行動と国造りに向けた事績は、各地の豪族や住民も、和の心を心としたニギハヤヒの国づくりに呼応、追随した結果であろう。 だから、死して神と崇められ、その功績の大きさに応じた諡号がつけられたのである。「天照国照彦天火明櫛甕玉饒速日命」であることはすでに述べた。 |