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更新:2007年10月07日 |
| 要 約 | 出自と系譜 | 在世年代 | 大歳を改名・饒速日に | 神社が語る | 筑紫から大和へ |
| 東遷部隊の面々 | 大和建国の偉業 | 考古史料 | 饒速日尊の死 | 皇祖天照魂神 | 饒速日尊の死後 |
| 饒速日尊系図 | 在世年代図 | 関連年表 | 出雲・大和一族の系図 | 日向一族の系図 | 引用文献・著者 |
| 【饒速日尊の死後】 |
| ●和国と日本国の合併話の台頭
BC81年頃、ニギハヤヒが亡くなり、その後継者は末子・イスケヨリヒメであるが、まだ生まれたばかりの2、3才と幼少だった。 長男のウマシマヂが後見として実質、日本(ひのもと)王朝の統治を代行することになった23)。古代は、末子相続の風習があった。これは、住居は小さく狭いので、子供が増えれば成長した者から順次、家を出ることは当然の成り行きで、末子が家に残り家督を相続した51)ものと思われる。 だが、ウマシマヂは海外からの新技術の導入を考えず、もっぱら現状技術で国を治めようとした。ところが、ニギハヤヒが伝えた技術が住民に新鮮なものと写っている間は国は安定して治められたが、それも次第に新鮮味がなくなり、国情は不安定になってきた。 ウマシマヂは、ニギハヤヒ祭祀を強化することでこれを乗り切ろうとしたが地方まで統治が行き届かず、不安定化した2)とみられている。 ニギハヤヒが亡くなってから10年ほど経った頃、日向で誕生した大穴牟遲命(オオクニヌシ)の子で、和国から日本国へ派遣されてきていた阿遅鉏高日子根尊(アジスキタカヒコネ=武角身尊)は、こうした大和の事情を憂えていた。このままでは日本王朝の衰退は明らか。何とかしなければと思い悩んでいた。 これに対し、和国はムカツヒメを初めとして多くの人々が外国から新しい技術を次々と導入し、残された未統一地域の集約に向けて活気があった。 かつて、和国の統一者だったスサノオは、日本列島全体を統一することを夢見ていた。ニギハヤヒもその意志を継いでいた。しかし、大和を統一する過程でやむなく和国とは別の日本国を作ることになった。 この経緯は多くの関係者が知っていた。アジスキタカヒコネは、日本国と和国の合併の可能性を模索した。 彼は和国に戻り、祖母・向津姫(ムカツヒメ)にこのことを訴えると、「日本国との合併は高皇産霊神(タカミムスビ)の最終目標であり、スサノオの夢でもある。ぜひ実現したい」との意見で、和国側は合併に対して異論はなかった。 宇摩志麻治(ウマシマヂ)や高倉下(タカクラジ)にも相談すると、父・ニギハヤヒの夢でもあり、日本国が不安定化している現状を一様に憂えており、その解決策として賛成した。 ところが、長髄彦(ナガスネヒコ=ニギハヤヒの義兄)は、「和国との合併などとんでもない。せっかくニギハヤヒ大王が作った国がなくなる」として反対した。そのため、合併話はすぐにはまとまらなかった。 アジスキタカヒコネは、合併の具体的策として、双方の正式な後継者を結婚させることを考え、提案した。 日本国は、ニギハヤヒの末子・イスケヨリヒメだったが、和国の後継者・熊野楠日尊(ウガヤフキアエズ)がこの頃すでに亡くなく、その末子は幼名・狭野(サヌ=伊波礼昆古)尊である。サヌはこの頃、すでに吾平津姫(アビラツヒメ)と結婚して2人の子がいたが、日本国と和国の大同合併の重要性を理解し承諾した。吾平津姫は悲しかったであろう。 当初は、ナガスネヒコが賛成するまで待つ方針だった。しかし、余り遅くなると時機を逸してしまうとみた阿遅鉏高日子根尊等は、強引に話を進めサヌは大和へ出発することになった2)。記紀でいう神武東征であるが、真相はニギハヤヒ大王家への婿入りの東遷だった。 ●二大国家の合併で大和朝廷成立 スサノオ・ニギハヤヒの統一事業の結果、日本列島は西日本の和国と近畿以東の日本国にまとまっていた。しかし、このままではいずれ戦乱が起きると考えた人々は、互いの後継者を結婚させて日本列島を一つの国にまとめようと考えたのだろう2)という。 日本国の後継者はニギハヤヒの末子・イスケヨリヒメは、この頃22才程の結婚適齢期になっていた。和国の方は、女王・向津姫(ムカツヒメ)がすでに没し、その末子・熊野楠日尊(ウガヤフキアエズ)も、その前に没してしまった。 後継者は結局、熊野楠日尊の末子で幼名・狭野(サヌ=伊波礼昆古)命となった。サヌはすでに40歳を超えていたとみられる。 外国との交易により、勢力のあった和国の方には異存はなかった。しかし、日本国の方はまとまらなかった。ニギハヤヒの死後、有能な人材に恵まれず、外国との交易ルートが不十分なため、新技術の導入もままならず、勢力は衰退し始めていた。 尊敬しているニギハヤヒが造った国を和国に乗っ取られると憂えたナガスネヒコは猛反対した。だが、両国の大勢は勢力回復を考えて賛成した2)とみられる。 和国の首脳は、ナガスネヒコの承諾が得られないままにゴーサインを出し、サヌは長兄・五瀬 (いつせ)尊ら数人が付き添って日向を出発することになった。しかし、大和の情勢が落ちつかないため、安芸と吉備で足止めを食ったが、そのまま日下から大和に入ろうとしたが、長髄彦(ナガスネヒコ)に追い返された。その時、兄の五瀬尊は長髄彦軍の矢玉が肘にあたり負傷した。 狭野命等は、やむなく難波津から紀伊半島を迂回して、熊野から大和をめざしたが、途上、泉南沖の船中で、五瀬尊は矢傷がもとで斃死した。 遺体は、現和歌山市和田の龜山に葬ったとあるが、五瀬尊の墓碑が和歌山市岩橋の天王塚から画像解析された結果、「五瀬命 戊午年6月3日薨 御年五十四歳」と判明し、在世はBC116〜63年59)とみられている。 その後、大和の賛成派の勢力がナガスネヒコを殺害してサヌ(伊波礼昆古)命を迎え入れたとあるが、ナガスネヒコは殺されていなかったようである。 「采覧異言」によると、日本の東の海上には巴太温(ハユタラス)という国があり、奥州南部の海辺にはその国の住人のものと思われる骨が漂流するという。はるか昔にいたという長髄彦(ナガスネヒコか?)は、もとこの国の住人で奥羽の地にやってきたのであろうか。 また、「東日流外三郡誌 (つがるそとさんぐんし)」によると、九州日向一族の伊波礼昆古命(神武天皇)等が、安日彦(あびひこ)・長髄彦(ながすねひこ) 兄弟が治める耶馬台国(大和)を征服。安日彦・長髄彦兄弟は敗走し、東日流(つがる)に逃れ、在住の勢力を制圧・懐柔し、荒吐族(あらはばきぞく) を形成したととある。書紀は、「ニギハヤヒは、ナガスネヒコを殺して帰順した」と書いているが、ニギハヤヒは当時すでに亡く、御子・宇摩志麻冶尊の時代である。宇摩志麻冶尊にとってはナガスネヒコは母の兄(伯父)であり、伯父を殺すようなことは考えられない。 ともあれ、伊波礼昆古(磐余彦=狭野)尊はイスケヨリヒメと結婚式をあげて初代神武天皇として即位した2),23),43),68)。辛酉(BC60)年二月二十一日(陽暦換算)のことである。明治政府はこの日を紀元節とし、現在は建国記念日としている。 統一国家の国名は、正式には日本国となったが、和国という国名はスサノオがつけた貴重なもので抹消できず、しばらくは双方の国名を使っていた。特に、中国との交易ルートがあったのは和(倭)国であり、日本国にはなかったことから、対外的には和(倭)国、大和国で通していたようである2)という。 中国の史書は、この史実を裏付けるている。旧唐書に、「日本国は倭国の別種なり、その国、日辺にあるをもって日本と名をなすと。あるいは言う。倭国自らその名の雅らかならざるを憎み、改めて日本となすと。あるいは言う、日本は旧小国、倭の地を併わせたりと」25)とある。 また、新唐書には、「倭の名を憎み、改めて日本と号す。使者自ら言う。国、日出ずる所に近し。故に名をなすと。あるいは言う、日本は即ち小国、倭の併わす所となる。ゆえにその号を冒せり」25)と記されている。 ●倭と日本 これらは、日本書紀の記述における日本の国名の起源と一致している。そして、「倭」の名が気に入らないから日本と改めたとする解釈説と、日本国と倭国が合併して日本国となったという説の二つある2)。 記紀には、「大和」、「日本」、「倭」のいずれも、「ヤマト」と読ませている。いずれも当て字である。記紀では両方の名称が混在している。 八世紀頃、「ヤマト」は国名を漢字二字で表すという制約から、「倭」を「大倭」と書くようになり、「倭」は字の意味から嫌われ、「大和」と表されるようになったようである。「倭」を嫌って「和」と書き改めていることからして、合併説が正しいと解釈できる。「和=ワ」という国名は、当時の人々にとって大切なものだったのである2)。 和は、当時から国是だった。「一つ、和を以て貴しと為せ・・・」と、厩戸豊聡耳皇子(聖徳太子)の創ったとされる17条憲法の冒頭にも書かれている。 和(ワ:倭)国とは、スサノオが統一した連合国で、中国・四国・北陸・九州地方を指し、日本(ヒノモト)国とはニギハヤヒが統一した近畿地方以東を指している。 中国の史書によると、どちらが、どちらを併合したのかに混乱が見られる。中国の常識では考えられない政略結婚による対等合併だった。だから、こうした混乱が起こったのではないか2)とみられている。 中国に、「日本」という名が知られたのは、この記事から判断して唐の時代と考えられる。新統一国家の名称として、「日本=ヒノモト」が使われるようになったが、「日本=ヒノモト」は、中国との交易ルートを持たなかった関係で、対外交易の時は交易ルートを持っていた旧国名の「倭」を使っていたのではないか2)ともいう。 日本国内でも日本書紀に見られるように、当時は、まだ「和=倭」は生きていたのである。 弥生時代は、西日本の銅剣・銅矛・銅戈の祭祀があり、東日本には銅鐸祭祀があった。大和朝廷は、この両方の祭祀圏を同じ信仰で統一している。 祭祀は保守的なもので、異なる祭祀を受け入れるときには大きな戦乱が付き物であが、そのような形跡もなく、混じり合った形跡もなく、すんなりと統一されているのである。 これは、双方とも同系統の祭祀であったためである。すなわち、スサノオ・ニギハヤヒという同属の人物である。祭祀の統一も、この二人の統一事業を裏付けている2)という。 |