大和国 建国の始祖王・大歳(改名・饒速日)尊  

更新:2007年10月07日

要   約 出自と系譜 在世年代 大歳を改名饒速日に 神社が語る 筑紫から大和へ
東遷部隊の面々 大和建国の偉業 考古史料 饒速日尊の死 皇祖天照魂神 饒速日尊の死後
饒速日尊系図 生存年代図  関連年表 出雲・大和一族の系図 日向一族の系図 引用文献・著者
オオトシと父・スサノオの出自と系譜

 スサノオやオオトシが活躍した時代は弥生中期のこと、遙か二千百年以上も前のことである。弥生時代とは、西暦紀元前3世紀末年から紀元後3世紀の時代をさす。これに先立つ縄文時代とは全く違った形式の遺跡や遺物が、明治17年、東京都文京区の旧地名・向ケ岡弥生町で出土したことから、その名がついたもので、考古学的にみて中国大陸や朝鮮半島からの文明が流入した16)ことが判明している。

 紀元前37年、朝鮮半島に在った布流国が滅亡したとき、国王・布都一族が日本列島に移住したのではないか2)とみる説もある。しかし、多くの研究者はAD120年頃に、父・スサノオが出雲で生まれた13),23)とみていて年代の比定が一致していない。いずれも推測の域をでていない。

、池田仁三氏による墓碑の画像解析59)で判明した多くの歴史人物の生存年代からみて紀元前のことと思われる。詳しくは、オオトシの在世年代の項で考証すすこととしたい。

 魏志東夷伝によると、朝鮮半島は、「馬韓・弁韓・辰韓に分かれており、南朝鮮では鉄がでるので、倭その他の諸国は、その鉄を求めて来往した」8)とあるように、スサノオ族は南朝鮮にいて製鉄を得意としていた支配階級であったのだろう。この地は侵略支配の中心であったことは想像に難くない。南下してくる高句麗族に抵抗しきれなくなり、度重なる交戦に疲れたスサノオ族(布都一族)は、朝鮮半島を離れ日本列島に活路を求めたのであろう14)とみられている。

 朝鮮半島での権力争いに敗れた布都一族は、朝鮮半島南端部から船出したということが考えられる。朝鮮半島南端部から船で漂流した場合、対馬海流に流されて島根半島北側の河下湾に漂着する可能性が高い。

 スサノオの生まれた地と伝承されている島根県平田市の宇美神社は、河下湾のすぐ近くで、河下湾周辺には朝鮮半島から上陸した人々のものと考えられる遺物が伝承と共に存在する。この一族の一人に、スサノオの父・布都がいたのではないか2)という。

 オオトシは、別項「スサノオの在世年代」で見たように、BC146年頃、父・スサノオが43才頃に、母・櫛稲田姫の第5子として誕生したとみられる。

 櫛稲田姫(櫛名田姫)を母とした兄弟には、第1子・八島野命、第2子・五十猛命、第3子・大屋津姫、第4子・抓津姫、第5子・大歳(後の饒速日)とあり、他に、宇迦御魂(倉稲魂命=稲荷明神)、磐坂彦尊、須世理姫の8人13)が記されている。原田常治氏は神社の縁起や伝承から、スサノオ一族の系図を整理43)している。

 さらに、スサノオが九州の日向に遠征し、イザナギの娘・向津姫(記紀でいうアマテラス)を現地妻として生まれた兄妹に、多紀理姫(木花佐久夜姫)、多岐都姫、市寸島姫の3人があり、記紀では、スサノオはアマテラスとの誓約で、この三女神が生まれた17),34)と表現しているが、誓約というのは政略結婚だ13)とみられている。

 誓約で生まれた男神は、天忍穂耳(あまのおしほみみ)尊・天穂日(あまのほひ)尊・天津日子根(あまつひこね)尊・活津日子根(いくつひこね)尊・熊野久須毘(くまのくすひ:熊野楠日)尊の五人である。熊野楠日尊は、伊波礼昆古尊(磐余彦尊:初代・神武天皇)の父である。従って、記紀の云う神武天皇は腹違いではあるが、オオトシ(ニギハヤヒ)の甥(おい)にあたる。

 広島県宮島町にある有名な厳島神社の主祭神は、スサノオと向津姫の間に生まれた市寸島姫(市杵島姫命)で、各地の神社で弁財天神として広く祀られている。一般に弁天さんと呼ばれるのはこの女神16)である。

 古事記は、スサノオは大山津見神の娘・神大市比売を娶り、大歳と宇迦御魂が生まれたとし、大山津見神は伊邪那岐神(イザナギ)と伊邪那美神(イザナミ)の子神で、櫛稲田比売、神大市比売、木花知流比売の父としている34)。しかし、日向のイザナギ・イザナミとは血縁関係はないばかりか、スサノオが九州南部に侵攻したときイザナギと戦っている2),13),23)ことらみても、そんなことはあり得ない。


 小椋一葉氏は、大山祇(大山津見)神を祀る神社は全国に一万一千社余りあるが、その総本社は愛媛県大三島にあるとして、各地の大山祇神を祀る神社の祭神関係を調べた結果、大山祇、大山積、大山津見神の正体は、スサノオだった23)としている。また、大三島の大山祇神社の由緒をみると、祭神の子孫・小千命が創建したとある。小千命はスサノオの子孫ということだろうか。古事記の系譜は全くの偽作である。

 「日本書紀」巻第一、第五段、一書第一に、「一書に曰く、伊奘諾尊、曰く、「吾 御べき珍の子を生まんと欲う。乃ち左の手を以ちて白銅鏡を持つときに、則ち化り出づる~有り。是を大日靈尊と謂う。右の手に白銅鏡持つときに、則ち化り出づる~有り。是を月弓尊と謂う。又、首を廻して顧眄之間に、則ち化り出づる~有り。是を素戔嗚尊と謂う。即ち大日靈尊・月弓尊、並びに是、質性明麗し。故、天地に照らし臨ましむ。素戔嗚尊、是、性殘い害るを好む。故、下して根の國を治さしむ」17)と、大日霊尊、月弓尊、そして素戔嗚尊を姉弟にしている。

 その上、スサノオを暴れ神として悪ごなしにし、根の国(根の堅州国)に追いやっている。根の国とは、死者の霊が行くと考えた地下の世界、また海上彼方の世界。底の国。黄泉。黄泉の国とも云う16)。死界に追放したというのである。岩波日本古典大系本では、アイヌ語で「根」には、「祖先」の意味がある。「堅い」は、「島、土地、国土」等を表すとあるが、いずれにしても、悪意に満ちた云い方である。

 「根の国に追放した」とは、穿って読めば日本書紀自体が、スサノオの史実を抹殺したと云っているものと受け取れる。

 とにかく、スサノオの出雲・大和一族と日向一族の系譜をごちゃ混ぜにした記紀の記述は、出雲系神々の系譜を抹殺しようとした意図がありありとみえる。

 ちなみに、スサノオの第2子・五十猛尊は、スサノオとともに朝鮮半島に渡り、半島文化や木種を導入したことは、記紀にも明記されている。


 オオトシ(ニギハヤヒ)は大和に東遷したときに、鳥見の豪族・長髄彦の妹・三炊屋姫(みかしきやひめ)を娶り、宇摩志麻冶尊と御歳姫を生んでいるが、御子とされている天香語山(高倉下)尊(尾張連/熊野連の祖)は、大和に東遷したときに連れている51),61)から、それまでに生まれていたことになる。

 先代旧事本紀に、「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊は、天道日女命(あめみちひめのみこと)を妃とし、天上に天香語山命(あめかごやまのみこと)を生む」とある。オオトシ(ニギハヤヒ)の親子関係を図示すると次のようになる。


 また、桜井市三輪の大神神社(おおみわじんじゃ)の縁起・古事記による大物主大神の系譜をみると、大物主大神(饒速日尊)が陶津耳の娘・活玉依毘売(いくたまよりひめ)を娶って生んだ子・櫛御方命で、その五世孫が大神神社の初代神主・意富多々泥古(おおたたねこ)(書紀は大直禰子)としており、饒速日尊が摂津国陶邑の活玉依毘売(いくたまよりひめ)を娶って櫛御方命が生まれていたようである。

 後々、大三輪(おおみわ)氏を名乗った大神(おおみわ)氏の後裔は、朝臣として朝廷に仕え代々、桜井市三輪の大神神社の神主を継いでいることがわかった。

 原田常治によると、崇神天皇の時代に大神神社を祀った初代宮司・意富多々泥古(大直禰子(おおたたねこ)は、石上神宮の祭神・布留御魂大神(饒速日尊)の後裔で、その末裔に欽明天皇の頃、ムサ(身狭)というのが居り、身狭の子に長男・コトヒ(特牛)、二男・ヒギ(比義)、三男・フス(布須)という蒙古系の名前がついている。コトヒ(特牛)は、大神神社の宮司を嗣いでいる。

 二男のヒギ(比義)は、「欽明天皇の御代、豊前国 宇佐郡菱形山に八幡大神を祀り、宮司の祖となる」とある。宇佐八幡宮を最初に神社として祀ったのが、比義(ヒギ)という蒙古系の名前である。

 三男のフス(布須)の子・ハクテ(白堤)は、いまの大神神社の摂社になっている奈良市の「率川坐大神御子神社」を造り、神武天皇の后・伊須気依姫を祀っている。(日本書紀には媛蹈鞴五十鈴媛五十鈴姫と書き換えられ、事代主尊の娘にされている)

 長男・コトヒ(特牛)の子・サカン(逆)は、敏達天皇の時、物部守屋と一緒になって仏教反対運動をやった人である。

 ニギハヤヒの末子・伊須氣余理比賣命(御歳姫)は、三島の湟咋の娘・勢夜陀多良比売を娶って生んだ34)としている。伊須氣余理比賣命(御歳姫)は、日向から伊波礼昆古命(磐余彦尊)を婿養子に迎え、大和の大王・饒速日尊の後を継ぎ、記紀では初代神武天皇としている。

 以上から、ニギハヤヒ(オオトシ)は筑紫から摂津・河内に東遷するまでに天道日女を、そして摂津あたりで活玉依毘売(陶津耳命の娘)、また勢夜陀多良比売(三島の湟咋の娘)、大和に入るとき三炊屋姫(鳥見の豪族・長髄彦の妹)と、合計4人の妃を娶っていることになる。たぶん、各地の豪族らを懐柔して大和国に参画させるための政略結婚だったとみられる。

 須佐之男尊や大歳尊(饒速日尊)ら出雲族には、何代も後まで日本名とは別に蒙古系の名前が残っている。これも、日本人の先祖は満州・蒙古系のモンゴリアン民族で、出雲族は朝鮮(韓)民族のいた南部朝鮮経由ではなく、北満・北鮮から隠岐島−出雲ルートで移住してきた民族であることを証明している43)という。


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