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更新:2007年10月07日 |
| 要 約 | 出自と系譜 | 在世年代 | 大歳を改名・饒速日に | 神社が語る | 筑紫から大和へ |
| 東遷部隊の面々 | 大和建国の偉業 | 考古史料 | 饒速日尊の死 | 皇祖天照魂神 | 饒速日尊の死後 |
| 饒速日尊系図 | 在世年代図 | 関連年表 | 出雲・大和一族の系図 | 日向一族の系図 | 引用文献・著者 |
| 【饒速日尊 筑紫から大和に東遷】 | ||||||||
| ●東遷時期と出立地
ニギハヤヒの東遷時期は175年 〜205年頃と推定されている研究者13),23),51)もあるが、在世年代からみてBC122年、25歳頃からBC103年(44歳)頃と推定される。東遷は、筑紫(北九州)出立(BC122年)から大和入り(BC103年)までの途中、安芸・讃岐・播磨・摂津・河内、そして大和に入られたとみられる。この間、約19年を要していることになる。 各地の豪族や物部を次々と従えて滞在、治世や稲作などの指導にもあたっていたことによると思われる。神社の伝承や地名がそれを伝えている。ニギハヤヒにしてみれば、より多くの部族を懐柔、仲間に従えて、大和での国造りを目論んだのであろう。 福岡県東部、筑豊地域から瀬戸内・播磨・摂津を経て最終的には、四十五人の豪族・従者と二十五部の物部(軍団)、船長・舵取り等の大部隊が船団を組んで難波津(大阪湾)から河内に入り、太古の大和川を遡ったものとみられる。 随行した親族・部族は、御子・天香語山命(あまのかごやま)を筆頭に、天鈿売命(あまのうずめ)・天児屋命(あまのこやね)・少彦根命(すくなひこね)・天太玉命(あまのふとたま)等の名前が連なっている51,61)。これらの名前をみると、「天照大神の岩屋こもり」の神話に登場するが、日本書紀は如何にでたらめな絵空事だったかが分かる。 東遷に従った物部(軍隊)の出自を調べると、九州北部からの部隊が多く、筑紫・豊・球磨・出雲・讃岐・大豆(佐賀県吉野ヶ里付近)などからの部隊名がみられる。 また出雲・対馬・壱岐・宇佐・安芸・山背・河内などの豪族とみられる人物も多くみられる。(東遷に随行した大部隊の名簿はこちら) 大集団の堂々たる船団は、他を圧する勢いであったであろう。大野七三氏51)は、その出立地から大和までの経路を次のようにみている。 ニギハヤヒの大船団は、物部の出自地に近い遠賀川の河口あたりから出航したものとみている。現在の遠賀川の河口は一本の流れとなっているが、古くは河口から二十キロほど、現在の直方市のあたりまでが入海となっていたところである。 昭和6(1931)年、遠賀川下流、立屋敷遺跡で発見された遠賀川式土器は、有文の弥生式土器として弥生式土器の原型がはじめて明らかになった16)。 筑豊盆地を囲む山々を水源とする遠賀川は、馬見山の中腹にある高さ六メートルの滝を源流とし、ここから全長六一キロメートル、流域面積1,030平方メートルの流れが始まり、筑豊全域で大小、70あまりの支流と合流しながら中間、遠賀を通って芦屋で響灘に流入する。主な支流は、飯塚市で穂波川、直方市で彦山川と犬鳴川、河口近くの芦屋で西川が合流している。 大船団は遠賀川河口附近に集結、洞海湾(どうかいわん)をぬけて戸畑附近に出て関門海峡を通り、瀬戸内の各地に滞在しながら、大和をめざした51)とみられている。 ●最初の寄港地 最初の寄港地は、伊予(愛媛県)の松山市三津浜附近と考えられる。そして、久米郡の豪族・伊予久米氏などを従者として東遷に従わせた。これが二十五部の物部に名を連ねる久米物部であろうか。また、瀬戸内の中心に位置してひときわ大きな大三島は、瀬戸内海の治安を司る要衝の地である。 この島には、日本総鎮守・大山祇神社 (おおやまづみじんじや)があり、社伝に「御祭神大山積大神は、天照大神の兄神で山の神々の親神に当り(記紀)、天孫瓊々杵尊の皇妃となられた木花開耶姫命の父神にあたる日本民族の祖神として、和多志大神(伊豫國風土記)と申し上げる」とあるが、これはニギハヤヒの別名である51)という。また一説には大山積大神は、スサノオ23)だともみられてており、ニギハヤヒは、父・スサノオを祀ったのかもしれない。 これで、大山祇・大山積なる神名は、記紀編纂の前後に当時の朝廷の命令でつけられた偽名とわかった。 「当社の御遷座は、仁徳天皇時代、この地の豪族小千(おち=越智)によって創建された」としているが、ニギハヤヒ東遷の途次、立ち寄られた聖地のため、この地に大山祇神社の創建となった51)とみられている。 次に讃岐(香川県仲多度郡)多度津港あたりから上陸して、三豊郡(旧三野郡)の豪族たちを平定したとみえ、この地より讃岐三野物部(さぬきのみののもののべ)が東遷に加わっている。 また、三豊郡に接する仲多度郡の国幣中社金刀比羅宮は、「大物主神(ニギハヤヒの別名)が琴平山に本拠を定め、中国・四国・九州などの経営に当たったのが始まり」という伝承があり、この附近も東遷途中にニギハヤヒによって、すでに平定されていたことが考えられる51)という。 ニギハヤヒはオオトシ時代に、スサノオの北九州統一に参加した後、讃岐の金比羅山(祭神:大物主神)の地で、瀬戸内東部沿岸地方を治めながら、近畿以東の統一準備を始めたことが、讃岐の琴平宮や島根の金比羅神社に残る社伝13),23)ががそれを伝えている。 讃岐(香川県)を出たニギハヤヒの船団は、播磨(兵庫県南西部)に遷り、姫路あたりから上陸、神戸辺りに拠点を置いた23)とみられる。 この地附近にはニギハヤヒの若い頃の別名・大歳(年)を祭神とする大歳(年)神社が夥しくある。おそらく、相当長期間この地に滞在していたことが考えられ、兵庫県内の大歳神社は387社にものぼることは、前項ですでにみてきた。 ニギハヤヒを祀る神社は、兵庫県龍野市龍野町日山の粒坐天照神社(いいほにますあまてらすじんじや)がある。この社の祭神・天照国照彦火明命はニギハヤヒの諡号を略したものである。 同社記によると「推古天皇二(549)年1月1日、小神の地に住む長者・伊福部連(いふくべのむらじ=物部氏族)駁田彦(はくたひこ)の邸裏にある林の上に異様に輝くものが現われた。それはやがて容姿端麗な童子と化し、自分は天照国照火明命の使だと称した。 駁田彦は、この傍から神勅を賜わって稲種を授けられ、これを水田に播くと、一粒が万倍になった。以後この地は米粒を意味するイイボ(揖保=いほ)郡と呼ばれるようになり、人々は深くこの神に感謝し、氏神として祀った」という。 当社創起の時期は不明というが、古代からこの地方にニギハヤヒ関係者が長者として繁栄していたことを裏付けている。 ちなみに、ニギハヤヒの別名・大歳(年)は、穀物の意味で稲作のこととされており、古代よりニギハヤヒが播磨地方に農耕を奨励していたことが揖保の伝承となったのであろう51)という。 ●播磨から摂津へ ニギハヤヒ軍団は播磨国に長期滞在の後、北九州方面からの物部に加えて播磨物部をさらに加え、摂津国(兵庫県の東南部から大阪府の北部)に遷られた。 摂津に入って一時期滞在したところは、三島平野の北東部高槻市三島江の、大山積神( おおやまずみ=ニギハヤヒ)を主祭神とする三島鴨社の場所と考えられる。伊予風土記に、大山祇神社(愛媛県越智郡大三島)について、「大山積神、一名は和多志の大神なり。この神、難波高津宮(仁徳天皇)の御世に顕れましき。この神、百済国より度り来まして津国の御島に坐しき云々」とある。 この伝承は、百済国からでなく、ニギハヤヒ(大山積神)が北九州から瀬戸内に入り、大三島に立ち寄られ、さらに摂津国三島江に留まられたことを示したものだろうという。 当時、この三島地方で最も勢力を張っていたのが溝咋耳 (みぞくいみみ)一族であったと思う。ニギハヤヒは、溝咋耳一族を服従、あるいは和睦のための政略上、首長・溝咋耳命の娘・玉櫛媛(たまくしひめ)を娶られた51)とみている。日本書紀は、神武天皇の正妃・媛蹈鞴五十鈴媛命 (ひめたたらいすずひめ)、(古事記は伊須気余理姫)は、玉櫛媛より誕生されたとしているが、古事記は、伊須気余理姫の住居を狭井河(奈良県櫻井市三輪)之上あたりとしており、後にこの地に住んでいた佐井連は物部氏の氏族である。大野七三氏は、神武天皇の皇后・伊須気余理姫(御歳姫)の母は、長髄彦の妹・三炊屋姫と考えられる。おそらく、ニギハヤヒと玉櫛姫との間に生まれた御子は、後の大三輪(大神)氏につながる天日方奇日方命であろう51)とみている。 古事記によれば、神武天皇の皇后・伊須気余理姫はの母は、三島湟咋 (みしまのみぞくい)の娘・勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)としている。ニギハヤヒの妃や御子については、別項の系図を参照してもらいたい。●大三輪(大神)氏・賀茂(鴨)氏 祖神系図によると
とある。なお、溝咋耳命 (みぞくひみみのみこと)とその一族が住まわれていたところは、三島鴨社より西二・五キロにある茨木市五十鈴町(旧溝咋村)溝咋神社附近ではないかと考えられる。●溝咋神社 主祭神正殿 媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと) 溝咋玉櫛媛命 (みぞくひたまくしひめのみこと)相殿 三島溝咋耳命(玉櫛媛の父) 天日方奇日方命 (あめのひかたくしひかたのみこと)素盞鳴尊、天児屋根命 由緒 「当社は古くは東北五〇〇メートルの溝咋村字宮田に「上の宮」(祭神・媛蹈鞴五十鈴媛命)現社は「下の宮」として、その母・溝咋玉櫛媛が祭祀されていたが、明治四十二年に「上の宮」が「下の宮」に合祀された」とある。 なお、三島鴨神社の鎮座地、高槻市の市名起原は、「神武天皇時代、この地をニギハヤヒの御子・宇摩志麻冶命(亦の名・可美真手命)が治めており、命の旗印が月像であったことから、この地を高月と呼ぶようになった」という。 また、ニギハヤヒを太陽神・天照御魂神 (あまてらすみたまのかみ)として祀った新屋坐天照御魂神社(にいやにますあまてらすみたまじんじや)が、茨木市福井二四八五番地、茨木市西河原八五九番地、箕面市宿久庄四七七番地の三ヶ所にある。これらの社は、ニギハヤヒの東遷に関係して祭祀されたと考えられる。社伝では、「新屋郷福井の丘に崇神天皇七年九月、饒速日尊の六世の孫・伊香色雄命 (いかしこおのみこと)が、崇神天皇の勅命により皇居に奉祭されていた饒速日尊の御魂の憑代(よりしろ)と考えられる神宝、「瑞の宝十種」と「布都主剣」を、天理市石上神官に遷座祭祀した物部氏の祖)によって祀られ、さらに神功皇后が三韓遠征に際して三島県新屋川原で潔禊(みそぎはらえ)を行ない、帰国後、西の川上と東の川上に社を作って、祭神の幸御魂と荒御魂を祀った。それが上河原と西河原の神社である」という。●摂津から河内に 摂津国三島地方を平定したニギハヤヒ軍団は、淀川を渡り北河内に入って交野附近を平定し、この地の肩野物部(かたののもののべ)を加えて磐船街道に沿った天の川上流・交野市私市(きさいち)の磐船神社附近に立ち寄られた51)とみている。 この神社名「磐船」は、当社の境内に船形をした巨巌があることによる。また、祭神・饒速日尊と「磐船」による天孫降臨伝承があるという。古代の河内平野の多くは、まだ湛水しており河内湖を形成していたという。 (饒速日尊一行が天降った河内の川上、哮峯と磐船神社の位置を図示) 日本書紀に、「饒速日命、天磐船に乗りて大虚(おおぞら)を翔行(かけりゆ)きてこの郷(さと)をみて降りたまふに至る。故に因りて、なづけて「虚空見日本国(そらみつやまとのくに)」といふ」17),51)とある。 先代旧事本紀の「天神本紀」「天孫本紀」には、「饒速日尊、天神御祖(あまつかみのみおや=スサノオ)の詔(みことのり)をうけて、天磐船に乗り、河内国河上哮峯(いかるがのみね)に天降り坐(ま)す。さらに、大倭国鳥見(やまとのくにとみの)白庭山に遷り坐す。いはゆる天磐船に乗り、大虚空(おおぞら)を翔行(かけりゆ)きて、この郷を巡りみて、天降り坐す。すなはち、「虚空見日本国(そらみつやまとのくに)」といふは是なり」10),51)と記されいる。 なお、天降られたとする哮峯(いかるがのみね)とは、北河内郡天の川の上流生駒山の北嶺とされている。 中河内の石切剣箭神社(いしきりつるぎやじんじや)の伝承では、「哮峯より直ちに大倭国鳥見自庭山(やまとのくにとみのしらにはやま)=奈良県桜井市三輪山の南広範囲の地域)に遷ったとしているが、生駒山の主峰、標高六四二メートルの西の山腹、石切剣箭神社の飛地境内地、通称「宮山」と呼ばれる平坦地に一時期滞在されていたようである。現在もこの地から土器などが多数出土するという。石切剣箭神社は、ニギハヤヒの滞在された聖地に創建された神社であろうとみている。 ●石切剣箭神社 東大阪市東石切町一番地一号 主祭神:饒速日尊 可美真手命(うましまてのみこと) 社伝によると、「神武天皇紀元二年、宮山に饒速日尊を御祭神として上之社が建てられ、崇神天皇の御代に下之社(御本社)に可美真手命が祀られた」という。可美真手命とは宇摩志麻冶尊と同じである。 当社の祭祀は代々木積(ほづみ)家が司っているが、木積なる姓は本来、穂積といい饒速日尊の六代目にあたる伊香色雄命がこの穂積姓(ほづみのかばね)を初めて名のられ、爾来物部氏の一派として一氏族をつくり大和(奈良県)を中心として八方にその部族が蔓延している。その祖先である饒速日尊とその御子可美真手命を御祭神と仰ぎ、この土地に御霊代を奉祀し、本社鎮座となったという」としている。 ちなみに、生駒山の西側の中河内は、物部氏本宗のあった現在の八尾市(旧若江郡、渋川郡)を中心として、物部系氏族の一大居住地であり、物部系と考えられる式内社に、八尾市南本町の矢作神社(やはぎじんじや=矢作氏、主神は経津主命)、八尾市の東弓削(ひがしゆげ)と弓削の弓削神社(弓削氏、祖饒速日尊)、八尾市跡部(あとべ)本町の跡部神社(阿刀氏、祭神不詳)があり、その他物部系とみられる神社が多くある。 また、八尾市太子堂大聖勝軍寺境内には、物部本宗家・物部守屋の首を洗ったと伝える守屋池、守屋の墓などがあり、隣接の藤井寺市惣社には志貴県主神社(しきのあがたぬしじんじや)がある。この附近はニギハヤヒの系譜につながる志貴県主(後の物部氏)一族が古墳時代より居住していたところと推定される。 『雄略記』に、天皇が生駒山を越えて河内の日下に来られたとき、山の上からはるか南方の地に「志貴の大県主」の大邸宅を発見し、地方豪族の身分で、実にけしからぬと立腹、部下を遣わして詰問させた旨の伝承がある。 なお、生駒山の別名を「二ギハヤヒヤマ」ともいう。おそらく、大阪湾から浪速に入り、東方生駒山から赫々と昇る勢い盛んな朝日を眺めて付けられた名称と考えられるが、饒速日尊という神名も生駒山を越えて大和に遷ってより付けられた神名であると思う。また、生駒山付近の地名を「トミ」ともいうが、「トミ」(登美・登弥・鳥見)とは、尊い御霊という意味で、饒速日尊の住まわれたところに付けられた地名51)と考えられている。 ●いざ大和へ ニギハヤヒ一行は、難波津(大阪湾)から船で古代の淀川を遡り、さらに支流の天の川を遡り、磐船越(いわふねごえ)で大和に入ったとみられる。 生駒山附近に滞留していたニギハヤヒは、その後、生駒山を越えて奈良盆地の北部に遷り、矢田丘陵から富雄川の東部にかけて広範囲の地にしばらく滞在されていたようである51)。 大阪府と堺をなす生駒連峰の中心、生駒山を越えるには、大和と河内を結ぶ磐船越が古代から通じていた23)という。 この地一帯は、奈良時代には「登美郷=とみのさと」、『和名抄』に「鳥貝(見?)郷」、中世には「登見庄」となっている。 この「トミ」の地附近で、ニギハヤヒに関係ある神社としては、生駒山東麓の往馬坐伊古麻都比古(いこまにますいこまつひこ)神社がある。 ●往馬坐伊古麻都比古(いこまにますいこまつひこ)神社(往馬大社) 鎮座地 奈良県生駒市一分町 祭神・伊古麻都比古(いこまつひこ)神、伊古麻都比売神(いこまつひめのかみ) 外五柱神 由緒 「生駒谷一七郷の氏神で往馬彦(いこまひこ)、往馬姫(いこまひめ)を祭る。その神宮寺と称するものが凡そ11坊あったという」とあり、古代は相当大規模な神社であったことがわかる。 当社のお祭神・往馬彦とは、生駒山の精霊であり、生駒山が別名「二ギハヤヒヤマ」といわれていることからすると、往馬彦とはニギハヤヒの別神名と考えられる。また、往馬姫とは、ニギハヤヒの妃・三炊屋(みかしきや)姫、あるいはニギハヤヒの娘で、神武天皇の皇后となった伊須気余理比売をさして付けられた神名ではなかろうか51)という。 当社は、生駒山東麓、生駒川(竜田川)の西畔に鎮座されている社であり、古代この地の有力氏族・平群(へぐり)氏によって創建された神社と考えられる。 なお、『延書式』では大社として月次(つきなみ)・新嘗祭の官幣に預り、二座の神のうち一座は祈雨神祭の官幣にも預っている。また、大嘗祭の悠紀(ゆき)・主基(すき)の国を占定する際に使う火燧杵(ひきりぎね)は、当社から奉るのが例とされる重要な神社といわれている。 また、奈良市と大和郡山市が接する富雄川東岸のなだらかな丘陵の先端、旧登美郷(とみのさと)に鎮座する登弥(とみ)神社も、ニギハヤヒに関係ある神社である。 ●登弥神社(旧県社) 鎮座地 奈良市石木町六四八 主祭神 饒速日尊 外五柱 由 緒 「当社は添下郡登貝(見)郷の式内小社で、古くは木島明神(このしまみようじん)と呼ばれてきた。現在、石木・大和田・大向・城・西城の総鎮守で、このうち城と西城は大和郡山市に編入されている。 『石上神宮旧記』に、「櫛玉饒速日尊大和国鳥見明神、河内国岩船明神是也」とあり、饒速日尊は大和(奈良県)では「登見明神」、河内では「岩船明神」として祭られていたという。 なお、登弥神社の祭神が「木島明神」とも呼ばれることは、京都の賀茂神社と関係ある京都市右京区太秦森ケ東町の木島坐天照御魂(このしまにますあまてるみむすび)神社(祭神・火明命)と関係があるのではなかろうか。 さらに、鳥貝郷(登美郷)の南に続く矢田郷(箭田郷=やだのさと)の富雄川沿いにある矢田坐久志玉比古(やだにますくしたまひこ)神社は、ニギハヤヒの住居地の伝承のある神社である。 ●矢田坐久志玉比古神社 (旧県社) 鎮座地 大和郡山市矢田町東良 主祭神・久志玉比古神(天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊) 女神(御炊屋姫命) 由 緒 「郡山の西に勢力をもった矢田部氏の部族神といわれる饒速日尊と御炊屋姫命を祀った神社である。 伝承によると、饒速日尊が天磐船に乗り降臨された際、三本の矢を射て落ちた所を住居と走めたが、その一の矢が落ちた所が当社で、二の矢の落ちた所は境内の二之矢塚と称する小塚であるという。この失落伝承よりして「矢落(やおち)大明神」とも称される。 盛時には四十一ケ村二八四二尸の氏子があったという。現在は大和郡山市の丸尾・新町・東村・榁ノ木・北村・東明寺・中村・横山・垣内・岡・山田原・深谷が祭祀に預り、宮座には北座と南座があるといわれ、古代には奈良盆地で最も崇敬されていた神社であったと推定される。 その後、生駒山を越えて奈良盆地を平定したニギハヤヒは、桜井市の三輪山西麓から鳥見山附近にかけて勢力を張っていた長髄彦を服従させて、その統治権を掌握し、長髄彦の妹御炊屋姫を妃として、宇摩志麻冶命(可美真手命)と、後に神武天皇の皇后となる伊須気余理比売(媛蹈輔五十鈴媛命)が誕生することになる。 なお、ニギハヤヒがこの地に住まわれた場所は、三輪山西麓の狭井川の畔で「出雲屋敷」と呼ばれているところ51)と考えられている。 ニギハヤヒの大和東遷は筑紫を出てから実に19年間をかけた長旅であった。三輪山麓に政庁を置いたのがBC102年、45歳の頃と推定される。 |
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