| 【要 約】 更新:2008年06月11日 |
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須佐之男尊(以下、スサノオと略記)は、日本列島に初めて国らしき国を建国した始祖王だった。しかし、古事記・日本書紀(以下、記紀と略記)は、スサノオの偉業や史実を抹殺し、神話の絵空事で誤魔化して暴れ神にしてしまった。 記紀が編纂されたのは八世紀。六世紀にはすでに仏教が百済を通じて日本に布教し始め、弥生の古代から飛鳥時代まで、スサノオ一の末裔・物部 (もののべ)氏が奉じていた古神道が、蘇我(そが)氏との熾烈な宗教戦争で敗退した。そのうえ、乙巳の変で蘇我氏の飛鳥朝廷を乗っ取った百済王族(翹岐=日本名:中大兄)の娘・持統女帝(鸕野讃良)と権力者・藤原不比等(百済の大臣・智積=日本名:鎌足の次男)のもとで記紀は編纂された。 記紀の編者等は、スサノオの日向妻だった向津姫(大日霊女貴尊)を皇祖神に差し替えた。そして、建国の始祖王・スサノオや皇祖天照魂神として祀られていたスサノオの御子で大和国建国の覇王・饒速日尊(ニギハヤヒ:大歳を改名)の史実を抹殺してしまった。 国民は、政争勝者の書いた記紀をもとにして歴史を教えられ、それを疑いもなく信じてきた。しかし史実は意外なところに隠されていた。 スサノオは、BC188年頃に出雲沼田の郷士・布都の子として生まれた。19歳頃、出雲木次の豪族・オロチを倒し、手込めにされていた櫛稲田姫(くしいなだひめ)を助けて娶(めと)り、須賀の地に館を構えた。稲作や製銅・製鉄等の技術を住民に指導し、生活の向上技術を普及させた。その技量と人柄を見込まれ、29歳頃には出雲国王に推された。 スサノオは毎年、出雲・隠岐の族長を集めて技術指導を軸に統治し、合議制で出雲国を統治・運営した。いわば、民主政治の芽生えである。出雲風土記は、「須佐之男は仁慈(じんじ)の名君だった」と称えている。 田畑を荒らす鳥獣を防ぐために初めて弓を創作し、火をおこす鑽火器(きりびき)も考案した。資源や最新技術を確保すべく、次男・五十猛(いたける)尊を連れて朝鮮半島にも渡り、優れた稲籾(いねもみ)をはじめ各種の木種、造船等の技術を手に入れて普及させ、農耕・漁業を振興し、出雲の住民生活は大きく向上・安定した。 資源や領土争いを繰り返していた各地の部族を、新技術や資源を梃子(てこ)に説き伏せ、大同団結を呼びかけた。越・加賀・能登・長門・筑前・豊前から日向にも遠征し、北陸・山陰・中四国・九州各地の小部族国を連合、拡大に成功し和国(わこく)を創建した。和国王スサノオは、「和」を治世の基本戦略とした。 スサノオ尊の建国した和国は、まだ中央集権国家ではなく、豪族の合議・連合体だった。中国の史書は後に倭国と書いた。 【アマテラスはスサノオの日向妻だった】 南九州では日向を連合させたとき、伊弉諾尊 (いざなぎ)の娘・向津姫(むかつひめ、記・紀の天照大神)を現地妻として娶(めと)り、豊国の宇佐や日向の西都に政庁を置いた。そして、各地に御子・八島野(やしまぬ)尊・五十猛(いたける)尊・大歳(おおとし)尊・娘婿の大己貴(おおなむち)尊(大国主)や部下を配置して統治させた。政情がほぼ安定したのを見定めて、筑紫(ちくし)から讃岐(さぬき)に遷(うつ)って、北九州から瀬戸内地方を統治していた大歳(おおとし)尊に、河内・大和に東遷(とうせん)して、以東の国々を統合するよう命じ、故郷・出雲に帰って亡くなられた。ときに65歳、BC124年頃とみられる。 スサノオの御陵は八雲村大字熊野(現・松江市八雲町熊野)にある元出雲国一の宮・熊野大社の元宮の地とされ、「神祖熊野大神櫛御気野尊(かむおやくまのおおかみくしみけぬのみこと)」の諡号(しごう)で祀られている。神のなかの祖神(おやがみ)である。 大同五(810)年正月、嵯峨天皇は、「須佐之男尊は即ち皇国の本主なり。故に日本の総社と崇め給いしなり」として、スサノオ尊を祀る津島神社(愛知県津島市)に日本総社の号を奉られ、また一条天皇は、同社に天王社の号を贈られた。 当時の天皇は、記紀に書かれた、あの惨(みじ)めなスサノオの姿とは違って真相をご存じのうえのでの行為であろう。 中国の史書・宋史の日本伝は、神武天皇(記・紀では初代天皇)の六代も前に、素戔嗚尊(須佐之男尊)を国王としてはっきりと記している。 スサノオ尊は、小諸国を統一して国造りに努めただけでなく、住民の生活向上に心を配り、様々な事柄を開発・創始し、御子や部下たちを各地に派遣して国土開発や殖産興業を奨励し、人材を適材適所に登用する優れた指導者でもあった。思えば、スサノオは日本列島に初めて国らしき国を創建した建国の始祖王だった。 【スサノオ尊の遺命をうけた御子・大歳尊は大和国を創建】 スサノオ尊の遺命を受けた御子・ 大歳尊は、筑紫から讃岐・播磨を経て河内から大和に東遷し、三輪山麓に日ノ本王朝・大和国を創建した。饒速日と改名した大歳尊は、東海・関東から東北の飽田(秋田)辺りまで遠征、大和国を拡大し、大和に帰還して没した。三輪山は饒速日尊の御陵で、死して天照御魂神として各地の天照神社に祀られた。饒速日尊亡き後、末娘・伊須氣余理姫命は、日向から従兄弟の狭野(伊波礼昆古)命を婿養子に迎え、大和国王を継いだ。初代・神武天皇でスサノオ尊の孫にあたる。 【スサノオ尊の本名について】
記紀等に書かれている「須佐之男命」・「素戔嗚尊」の名前について、これまで疑問を提起した文献は見当たらない。古代史研究を本職とする学者等は、一体何を考えているのか不思議でならない。 スサノオは、古事記では速須佐之男尊・須佐之男命、つまり「須佐の男」であって、これは本名でないことは明白である。なんと、酷いことに日本書紀はこれを同音の素戔鳴尊と書いている。 「素」は、ソまたはスと発音し人を表す語に付けて、「平凡である。みすぼらしい」など軽蔑の意を添え、「素町人」「素浪人」など。「戔」は、音読みでは「サン」・「ザン」・「セン」で、「きずつける」、「そこなう」という意味である。。「鳴」は、鳴く(泣く)こと、吠えること。またその声を云う。つまり、「きずつき、みすぼらしく、泣く人」という意味16)になる。如何に侮辱 出雲風土記は、神須佐能袁命としているが、「能」は、よく事をなし得る力、才能、能力、働き。また、働きのある人、才知のある人をさす16)。「袁」は通常、「お」と発音するが、能袁で「のう」、または「のお」と読ませている。字意からすれば、「須佐の働きのある人」ということになり、記紀よりもましな表記であるが、これも記紀の発音を、ただ踏襲(とうしゅう)したものとしか思えず、出雲風土記の編者の苦心がみられるが本名とは思えない。 古事記は「神生み」のなかで、「伊耶那岐(イザナキ)命、・・・ゆつ石村に走り就きて成りし神の名は、甕速日(みかはやひ)神、次に樋速日(ひはやひ)神、次に健御雷之男(たけみかづちのお)神、亦の名は健布都(たけふつ)神、亦の名は豊布都(とよふつ)神。・・・」とある。 甕速日神、樋速日神は、ともに雷火の威力を神格化したもので、健御雷之男神も勇猛な男神をさし、健布都神、亦の名は豊布都神の「フツ」は、「布都御魂(ふつのみたま)神」や「経津主(ふつぬし)神」と同神だ81)という。 天理市にある石上神宮の祭神として、布都御魂大神(ふつのみたま:スサノオの父)、布都斯御魂(ふつしみたま)大神(スサノオ)、布留御魂(ふるのみたま)大神(スサノオの御子・オオトシ=ニギハヤヒ)が祀られており、いずれも蒙古名43)だという。 日本書紀は、「葦原中国の平定(出雲国譲り)にあたって幾度も武将を派遣したが、いずれも失敗した。最後に經津主神、甕速日(みかはやひ)神の子・熯速日(ひのはやひ)神、熯速日神の子・武甕槌(たけみかづち)神を配へて云々」と書いている。經津主(ふつぬし)神はスサノオの父。甕速日(みかはやひ)神はスサノオの御子・オオトシ(饒速日尊:ニギハヤヒ)。武甕槌神は古事記の健御雷之男神と同神で、スサノオをさしていると思われる。大野七三氏は、武甕槌神は饒速日尊の別称51)だとみている。 いずれにしても、スサノオ一族である。その当時にはすでに在世していないが、スサノオの建国した出雲国譲り(乗っ取り)には、記紀は創作といえども、さすがスサノオはじめ出雲一族を無視するわけにはいかなかったとみえる。 スサノオが祀られている全国の神社で調べた祭神名43)によると、須佐之男尊・須佐之男命・進雄尊・素戔嗚尊・速玉大神・家津御子大神・牛頭天王・八千矛大~・大国主大神・神天照真良武雄神・武甕槌(出雲大社の摂社・速玉社)・速玉之男尊など、多数にのぼる。神名を色々と変え、スサノオを抹殺する常套手段13),23)だという。 ところで、出雲風土記の一節に、「布都怒志命(ふつぬし)」、「和加布都怒志能命(わかふつぬし)」という人物が登場する。出雲風土記も、当時の朝廷の命で記紀の記述にそぐわない神名は大幅に改竄(かいざん)させられたものとみられる。 ここでいう布都怒志命はスサノオの父・布都で、和加布都怒志能命は布都斯(スサノオ)のことと思われる。また、「神須佐乃乎命」・「熊野加武呂命」・「神須佐乃烏命」とする表記もあり、いずれもスサノオのことである。 さらに同記の飯石郡の条に、「須佐の郷、郡家正西一十九里なり。神須佐能袁命、語りたまひしく『此の国は小さき国なれど国処なり。故、我が御名は石木(いわき)に着けじ』と詔りたまひて、即ち、大須佐佐田・小須佐佐田を定め給ひき。故に須佐という」51)とある。 スサノオの諡号は「神祖熊野大神櫛御気野尊」で、「みけ」は御飯(食)で食物神、穀霊を表す16)とされている。諡号というものは本名の前に称え名を入れるのがルールのようである。 ひょっとすると、「櫛御気野」が本名かも知れないが、これ以上詮索するすべはなく、須佐之男尊(スサノオ)と呼ぶほかない。間違っても、悪意をもって書かれた「素戔嗚尊」は使うべきでないと、筆者は考えている。 |
2008/6/11