建国の始祖王 須佐之男尊

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【神社の縁起・伝承が語るスサノオ                    更新:2007年10月07日

 スサノオは、記紀が編纂された八世紀以前から祀られた神社に、数え切れない程数多く祀られ、そこに伝わる縁起や伝承は、スサノオの活躍や偉業を今に伝えている。

 スサノオと正妻・櫛稲田姫の御子・八人、その孫など一族を祀った神社は、記紀が出来る以前には全国の神社総数の七割くらいも占めていた43)という。スサノオは八千矛大神として祀られている場合もある。

 また、記紀編纂に伴って改竄されたとみられる神名・大山祇(大山積 大山津見)神を祀る神社は、全国に一万一千社もあるという。その総本社は愛媛県今治市大三島の大山祇神社である。同神社の創建は、祭神の子孫・小千命で、神武天皇時代というから最も古い神社で、かつては伊予国一宮で国幣大社だった。小千命は、神武天皇の時代に「小千国主に任じられた」とある。小千国は、現在の愛媛県越智郡とみられる。


 さらに、スサノオを祀る天王社は全国に三千社もある。その総本社は愛知県津島市の津島神社だったことが尾張名所絵図に出ている。「第七代孝霊天皇のとき西海の対馬に祀られ、欽明天皇(29代)の御代(540年)に対馬から奉遷された」とある。もと対馬に祀られていた祭神を、スサノオの後裔・尾張氏が尾張国に遷したのであろう。同社にはスサノオの肖像画がある。

 大同五(810)年正月、嵯峨天皇は津島神社に、「須佐之男尊は即ち皇国の本主なり。故に日本の総社と崇め給いしなり」として、日本総社の号を奉られている。また、一条天皇(寛和二(986)〜長元九(1036)年)は、津島神社に天王社の号を贈られた23)

 810年と云えば、日本書紀が撰録されてからすでに90年も経っている。記紀にある惨めなスサノオ像は、すでに誰の眼にも明かだった筈なのに、嵯峨天皇はわざわざ新年にスサノオを「皇国の本主」と讃えて「日本の総社」と崇められたというのである。

 当時から天皇は、スサノオの真相をよくご存じだったのであろう。平安時代の天皇家も、スサノオやオオトシ(ニギハヤヒ)を祀る紀伊の熊野三社(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)を、京都御所から遠路再々、参られたのは有名の史実で、海南市藤白から山越えの熊野古道が世界文化遺産に登録された。


 熊野本宮大社は、スサノオの後裔・熊野連が第十代崇神天皇時代に創建した(扶桑略記)もので、主祭神は饒速日尊(ニギハヤヒ)だった筈であるが、改竄名・事解男尊にされ、今は家津御子大神だと説明している。おまけに、熊野牟須美神という訳の分からない神名が登場し、これを「伊邪那美大神・伊邪那岐大神様の夫婦神である」と説明しているが、イザナミ・イザナギは熊野には関係がない。

 熊野那智大社の祭神は、第一殿(瀧宮)大己貴命(オオクニヌシ)。第二殿(證証殿)家津御子大神(スサノオ)、国常立尊。第三殿(中御前):御子速玉大神(スサノオ)。第四殿(西御前)熊野夫須美大神(スサノオ父・布都)。第五殿(若宮)天照大神で、延喜七(907)年、宇多上皇の御幸をはじめとして、後白河法皇は三十四回、後鳥羽上皇は二十九回も参詣を重ね、また花山法皇は千日(三年間)の瀧籠りをされたと記録されている。

 熊野速玉大社の祭神は、もとは熊野速玉大神だったのが、今はこれを伊耶那岐尊だと説明している。熊野速玉大神は、スサノオの別名である。


 また、熊野三山への参詣古道入り口にあたる海南市藤白に、饒速日(大歳)尊の後裔・熊野連の末裔・鈴木氏が氏神として創建したとされる藤白神社があり、創建は平安時代としている。

 この神社は、熊野三山から祭神を勧請したとあり、筆頭に饒速日尊、そして熊野坐大神(家津御子大神=スサノオ)・熊野速玉大神(伊弉諾尊としているが実際はスサノオ)・熊野夫須美大神(伊弉冉尊だと説明しているがスサノオの父・布都とみられている)を祀っている。

 熊野本宮大社から勧請したとする祭神・饒速日尊を祀っているとすれば、熊野本宮大社にはもともと饒速日尊が祀られていたことになるが、今は饒速日尊の改竄名「事解男尊」という変な神名になっていることに気付かされる。

 境内の子守楠神社に熊野杼樟日(熊野久須毘)(くまのくすひ)命を祀り、楠の大木が茂っていて海南市の指定文化財になっている。スサノオの日向妻・向津姫との末子で、神武天皇の父・熊野楠日(くまのくすひ)尊のことである。

 同神社を創建した鈴木氏は、熊野からこの地に居を移したとし、全国の鈴木姓の元祖だという。いまも神社の東隣に鈴木屋敷跡が保存されている。


 スサノオは、BC188年頃に出雲国沼田郷(現在・出雲市平田町)で、父親・布都の子として生まれたとみられる。布都は、沼田の郷士だったようで、出生地とみられる平田町の宇美神社にはスサノオの父・布都御魂が祀られている。ここには現在、熊野三神が合祀されているが、これは応永年間(1394〜1428年)に合祀されたと書かれているので、それ以前は布都御魂大神だけが祀られていた43)ようである。

 奈良県天理市にある石上神宮は、古代から大和朝廷の守護神だった。「創祀は神武天皇即位元年、宮中に奉祀せらる。崇神天皇七年、宮中より現在地・石上布留の高庭に移し鎮め祀る」72)とある。神武天皇夫妻やニギハヤヒの長男・宇摩志麻冶尊が、皇居橿原宮内に祀り始めたのであろう。

 石上神宮の主祭神は布留御魂大神・布都斯御魂大神・布都御魂大神で、宇摩志麻冶尊、五十瓊敷入彦命、白河天皇、市川臣命が配祀されている。

 布留はスサノオの御子・大歳尊(以下、オオトシ・改名してニギハヤヒ)で、布都斯はスサノオ、布都はスサノオの父で、いずれもこれは蒙古名43)という。多分、記紀を編纂した頃に、スサノオやニギハヤヒの神名をわからなくするために蒙古名に書き変えられたのであろう。

 宇摩志麻冶はオオトシ(ニギハヤヒ)の長男。五十瓊敷入彦は垂仁天皇の皇子で石上神宮の祭祀を担当した人物という。ここは、まさにスサノオ一族の宗廟である。しかも神話で有名な、スサノオがヤマタノオロチ(豪族オロチ)を斬った十握剣(同神宮では八握剣と記す)が国宝として祀られている。いまは神宮の説明では「布都御魂大神は神剣の御霊威」72)だと説明しているところをみると、十握剣はスサノオの父・布都の刀剣だったのであろう。

 古くから同神宮の拝殿後方に磐坐が設けられ、神宝が埋斎されていると云い伝えられてきたが、明治七(1874)年に神官が朝廷の許可を得て発掘が行われ、伝え通り布都御魂剣をはじめ天璽十種瑞宝の数々の宝物が発見された72)という。

 偉大なる覇王の宝は弥生時代からの永い眠りから醒め、その輝かしい雄姿を見せたのである。考古学ブームの昨今なら一大センセーションを呼び起こしたにちがいない。同神宮の説明書では、「神剣は環頭内反の鉄刀であることから、中国は漢時代の素環頭鉄刀が招来されたものと考えられる」という。おそらく当時の出雲地方でも珍しい外国製品だったにちがいない。神武天皇は、橿原宮で即位したときにこの神器を継承し、宮中に祀っていたものであろう。

 それにしても、スサノオがオロチを退治た剣や、御子・オオトシ(改名・饒速日)に授けた神宝が、今なお現存しているというこの明白な事実。日本に「神代」などという時代はなかったことを、これほどはつきりと物語っているものが他にあろうか23)


 ところで、出雲風土記の一節に、「布都怒志命」、「和加布都怒志能命」という人物が登場する。布都怒志命はスサノオの父・布都で、和加布都怒志能命は布都斯(スサノオ)のことと思われる。

 出雲風土記は、和銅六(713)年、朝廷の命により出雲国造が撰録、天平五(733)年に提出されたものであるが、史実を書いていて記紀の記述と整合しない都合の悪い部分は朝廷から削除、または訂正を命じられたとみられる。その証拠に、出雲風土記には記紀に書かれているスサノオの出雲神話は全く出ていない。

 ところで、祇園祭で有名な京都の八坂神社(京都市東山区祇園町)には、スサノオと櫛稲田姫はじめ、八人の御子が揃って祀られている。八人の御子は、八島茶見命(八島野尊)・五十猛尊・大屋津比賣命・抓津比売命・大歳神・宇迦御魂神・大屋毘古命・須勢理比売命である。現在も約三千の分社が日本各地にあるという。

 神社事典によると、「八坂神社 旧官幣大社。祭神は素盞嗚命・稲田姫命・八柱御子神を祀る。古くは祇園感神院・祇園天神・祇園社・祇園牛頭天王・祇園大明神、あるいは単に祇園と称した。現在、祭神は素盞嗚命を祀るが、もとは祇園天神・牛頭天王が祀られた。牛頭天王は武搭天神とも称し、備後国風土記によれば、速須佐能雄(スサノオ)であると記している。(中略)創祀については定かでないが、当社は朝野の信仰を篤くし、史上にあらわれてくるのは平安期からである。当社は式外社であるが、はやく長徳元(995)年には二十二社にも列した」とある。

 出雲(島根県)はじめ、各地には弥栄神社でスサノオを祀っているが、八坂は弥栄から転じたものであろう。

 スサノオ・オオトシの出生地、島根県にはオオトシを祀る神社も多い。飯石郡三刀屋町の大歳神社は、島根神社庁発行の「神国島根」によると、「須佐之男命出雲に於いて大歳を生み給い・・・」と書かれている。オオトシはスサノオの子だったことは間違いない。こうしてニギハヤヒは、若い頃の名前をオオトシと云い、スサノオの御子であることが判明した23)


 神社と云うのは、古代、大きな偉業をあげて亡くなられた故人を、山頂や山腹等に磐座を造って埋葬し、神の坐す神籬を建てて祭祀した。その後、磐座の前に拝殿を建てて慰霊を拝み、五穀豊穣・氏族の隆盛・疾病平癒などを祈願・祭祀する場所で、これが神社となった。

 また、その部族や配下だった氏族は、自身の所領地に神霊を勧請して祭祀するために建造した神社も多く、政祭一致の拠点にしたとみられる。それが各地の氏神である。

 昔の村(邑)には氏神のない所はなかった。昭和初期までは氏神の社務所や寺が村役場でもあった。だから主祭神として祀られる神社数が多いのは、それだけ多くの支持部族・信奉者が居たことを物語っている。

 しかし、記紀の編纂後には、多くの神社の祭神名や縁起の改竄が行われたようで、これは当時、朝廷の指図で強制されたものと思われる。

 記紀が編纂されたときに皇祖神にされた大日霊女貴尊(向津姫=天照大神)はその時、伊勢神宮を創始して祀ったものという。記紀編纂以前の古代から在る神社では「大日霊女貴尊」で祀られているが、天照大神として祀ったものはない43)という。

 もともと皇祖神・天照魂神は大和国の開祖で、スサノオの御子・オオトシ(ニギハヤヒ)だった。各地に残る天照魂神社や天照神社には「天火明命」、「饒速日尊」として祀られ、また大歳御祖大神として祀る神社もある。

 先代旧事本紀や各地の天照神社では、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊として祀られ、これが饒速日尊の諡号のフルネームとみられる。


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 記紀に改竄された古代史の真相を糺す