| 【記紀に史実を抹殺されたスサノオ一族】 更新:2007年10月07日 |
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スサノオは、九州の統合には一部でやむなく武力を使った。そのためか、南九州の人々にスサノオに対する反発が残り、この地方には出雲式の銅剣・銅矛祭祀の遺跡がなく、スサノオを祀る神社も少ない。そして、このことが記紀に暴れ神にされた一因になったのではないか2)とみられている。 そればかりか、記紀はスサノオの建国した和国、オオトシ(改名・饒速日尊)の大和建国の史実をはじめ、系譜まで改竄・抹殺し、当時祀られていた神社の祭神名まで改竄したことが判明した。 原田常治氏43)は、「日本書紀は嘘八百の創作歴史を書いて、それでも誤魔化しきれないところを、お伽話のような神話にして誤魔化した。でっち上げたものががばれることを恐れて、二神社の古文書を取り上げ、史実を書いていたと思われる十六家の系図を没収した」とみている。 記紀編纂の最中である持統天皇五(691)年八月十三日条に、「其の祖等の墓記を上進らしむ」69)と書いているが、その意図は推して知るべしである。 没収された二神社と十六氏族は次のとおりだった。 ●石上神宮(天理市布留町)の古文書(スサノオ、オオトシ(饒速日)尊一族、その末裔である物部氏) ●饒速日大王の陵墓、三輪山を御神体として祀る大神神社(桜井市三輪 三輪氏)の古文書。 ●以下、豪族十六氏の系図・古文書 ・春日氏・大伴氏・佐伯氏・雀部氏・阿部氏・膳部氏・穂積氏・采女氏・羽田氏・巨勢氏・石川氏・平群氏・木(紀)角氏・阿積氏・藤原氏・上毛野氏である。 日本書紀の編纂を統括していた藤原不比等は、自らの系図を都合良く創作したのであろう。百済から来た父・鎌足(本名・智積:ちしゃく)の出自を、大伴氏の系図にそっと挿入している。 後に藤原氏の書いた「鎌足伝」には、「内大臣(うちつおおおみ)、諱(いみな)は鎌足、字(あざな)は仲郎(なかちこ)。大倭國(やまとのくに)高市郡の人なり。その先は天児屋根命(あめのこやねのみこと)より出ず。・・・美気祐卿(みけこきょう)の長子なり。母は大伴夫人(おおとものとじ)と曰う」と。 鎌足の先祖は、天児屋根命だとしているが、天児屋根命は紀元前二世紀の人物である。父・美気祐(みけこ:御食子)以前の系譜は伏せている。 また、元明天皇が即位した和銅元( 708)年正月、天下に大赦を出した。「ただし、山沢に亡命して禁書を隠し持っている者は、百日以内に自首せよ。さもなくば恩赦しない」という詔勅を出している。念には念を入れて、古代王族や豪族の系譜を抹殺しようと図ったのであろう。ところで、持統天皇六( 691)年三月、天皇(W野讃讚良)は、伊勢神宮に新たに皇祖神として天照大神(向津姫=大日霊貴)を祀り、その行幸をしようとしたとき、ニギハヤヒの末裔・「三輪朝臣高市麻呂は、冠位を脱ぎ捨ててまで阻止しようとした。しかし天皇は聞き入れず遂に伊勢に幸す」69)とある。ニギハヤヒの陵墓・大神神社(おおみわじんじゃ)を祀っていた大神(大三輪)朝臣高市麻呂は、大宝二(702)年二月十七日、左遷されて長門守に下ったが四年後に没している。また、同年八月十六日、石上神宮(いそのかみじんぐう)を祀る石上朝臣麻呂も太宰府に左遷されている85)。 記紀の編纂がすすんでいた頃のことで、朝廷と権力者・藤原氏は、記紀で史実を改竄してそれが発覚・指摘されるのを恐れたのであろう。 こうして、ニギハヤヒ(オオトシを改名)は亡き後、大歳御祖皇大神、天照魂神(諡号・天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊)として祀られていたものを、記紀は日向のイザナギの娘・向津姫を天照大神に据え替えたのである。 向津姫の諡号は、撞賢木厳御魂天疎向津毘売尊で、どこにも「天照」の尊号はない。別名・大日霊女尊とあり、巫女の役も務めていたのであろう。 記紀の編纂以前から祀られた神社の祭神名には大日霊女貴尊はあるが、天照大神で祀ったものはない13)という。まさにアマテラスの横取りである。 さらに云えば、記紀の編纂当時は持統女帝(W野讃讚良=天智天皇の娘)の時代だった。W野讃讚良は、天武天皇の没後、即位もせずに強引に皇位を横取りして女帝(持統天皇)となった人物である。 だから女帝の正統性を強調するために女神・大日霊女貴尊(向津姫=アマテラス)を皇祖神にしたかったのであろう。それには、スサノオやオオトシ(ニギハヤヒ)の史実を抹殺するしかない。 これは、当時の権力者・藤原不比等の差し金だったことは云うまでもない。そうした意図は、後に天皇名の称号を付けたとされる淡海三船(722〜785年)16)にも意識されたのであろう。持統天皇の諡号を、なんと「高天原廣野姫天皇」と名付けている。 記紀の天孫降臨神話は高天原を舞台にしてしている。高天原はどこだったかの詮索は無意味であって、これは全くのお伽話だった。強いて云えば、八世紀の朝廷における持統女帝を天孫と見立てた百済系皇族の居た宮殿とみることができる。 ところで、島根県出雲市大社町にある出雲大社は、正殿に大国主(大己貴尊)、左殿に日向での現地妻・多紀理姫命、そして右殿には正妻の須世理姫命を祀っている。ここは今も縁結びの神として賑わっている。 この大社はいつ頃の創建かと調べてみると、古事記が書き終わった四年後の元正天皇の霊亀二(716)年に完成した43)ことがわかった。 大穴牟遲(大己貴:おおなむち)尊が亡くなったのはBC103年頃とみられるから、なんと八百年以上もたってからのことになる。朝廷はその七年前の和銅二(709)年にも京都府亀岡市に出雲大神宮を建てていたこともわかった。 記紀を書いている最中に天照大神を祀る伊勢神宮を、そして大国主神を祀る出雲大社や出雲大神宮を造営している。これはいったい何を意味しているのであろう。記紀を詳しく読めばその答えが出ている。あえて説明の必要もないことと思うが、念のためその部分を紹介しておこう。 まず、古事記から見ていこう。証拠は上巻の「葦原中国平定」の「大国主神の国譲り」の段にあった。わかりやすくするため、現在文にしたものを引用すると、国譲り交渉の最後に、 「大国主神は答えて・・・、『この葦原中国は仰せのままに、すっかり献上致しましょう。ただ、私の住み家だけは天津神の御子が天津日継ぎを伝えなさる天の住居のように、大磐石の上に宮柱を太く立て、高天原に千木を高く聳えさせてお祀り下されば、私は多くの道の曲がり角を経て行った果ての出雲に隠れておりましょう』と、こう申して・・・」と。 日本書紀・巻第二・神代下では、「経津主神・武甕槌神を使わして葦原中国を平定させる。・・・二神は出雲に到りて、・・・大己貴神(大国主神)に迫った。 帰って報告したところ、高皇産霊尊は後に、二神を使わして、『・・・汝は神の事を治めよ。また汝は天日隅宮(出雲風土記の日栖宮。杵築大社=今の出雲大社)に住むべし、いま造ろう。即ち千尋(非常に長い)の栲縄(たくなわ:コウゾなどの皮でよりあわせた縄)をもって結び百八十?(むすび)にしよう。 その宮は柱は高く、太く、板は幅広く、厚く・・・。そして汝の祭司は天穂日命とする』と、大己貴神に云った。大己貴神は答えて云うには、『天神のおっしゃることは誠に尤もです。私は命令に従いましょう。・・・私は引退して霊界のことを治めましょう・・・』と云いました」と。 古事記では、大国主神は国譲りと引き換えに、立派な宮殿を要求したとし、日本書紀はすすんで宮を建てると約束したと云うのである。そして、神主は天穂日命、つまりスサノオと向津姫の御子(次男)である。ということは、出雲大社の前身・天日隅宮の祭神は、もとは大己貴神でなく、スサノオを祀る神社として建てたのかも知れない。 記紀は、こうして出雲の国譲り物語りを書いた手前、出雲族(スサノオ・ニギハヤヒ他、出雲の神々)をまとめて杵築大社を造営して記紀の記述に整合させたのである。 和国創建の始祖王・スサノオ、そして大和国建国の始祖王・ニギハヤヒの史実を抹殺するために、記紀の編纂途上で大国主神を創作して杵築大社(出雲大社)を建てたのである。 ところで、寛文6年(1666年)毛利綱広が寄進した同社の銅鳥居に刻まれた銘文には、「素戔嗚尊者雲陽大社神也」とあり、この当時は祭神がスサノオだったことは確かである。原田常治氏43)も、出雲大社を幾度か訪れたが、最初はスサノオが祀られていたと思ったが、いまは大国主神になっている(昭和51年9月)と書いている。 大国主は、建国の始祖王・スサノオや大和朝廷の開祖・ニギハヤヒ(オオトシ)の偉業を抹殺するために創作した目くらましに他はならい83)とことは判然としている。 その証拠に、藤原不比等は二ギハヤヒを祀る奈良市漢国町の「漢国神社(かんごうじんじゃ)」にオオク二ヌシを配祀して、みずからその見本を示した。また聖武天皇は、各国の総社にオオクニヌシを祀るよう勅命を出した13)という。もうこれ以上説明の必要もないことと思う。
傀儡 これは、いろいろな神の総称として描かれていて、必ずしも別名の神のすべてが大己貴(大穴牟遲=おおあむち)本人の活躍をあらわしたものでないことを示している13)。 史実を知らない民衆は、大国主は偉い神様で、創作された「因幡の素兎(いなばの しろうさぎ)」神話から、慈悲深い神さまだと思っている。 字音の「ダイコク」から、インドから伝わったヒンズー教の「大黒天(ダイコクテン)」と習合し、福の神・縁結びの神に、そして大穴牟遲命の御子・伊毘志都幣(いびしつぬ:事代主)尊はその発音から、これも七福神の一つ「恵比寿(えびす)」と混同された。二人は「恵比寿・大黒さま」として、福の神・商売繁盛の神さまとして、この世を一人歩きしている始末である。 |