| 【宋史が記す国王・須佐之男尊】 更新:2007年10月07日 | |||||||||
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中国の史書・宋史 卷四九一・外國伝・日本國の条 に、「雍熈(ようげん)元年、日本國の僧・「然(ちょうねん)、其の徒五・六人と海に浮かんで至り、銅器十事并びに本國職員令・王年代紀各一卷を獻ず」55)とあり、王年代紀の第1に天御中主尊・・・第18代には素戔嗚尊(須佐之男尊)が記され、24代に磐余彦尊が名前を連ねている。磐余彦尊は記紀では初代・神武天皇である。ともあれ、「宋史 外國伝 日本國」に載った古代の王名を、わかり易く表にすると以下のようになる。
*3)「其後皆以尊為号」とあり、古事記のように「神」ではなく、日本書紀と同様「尊」を用いている。 *4)「〓」は「龍」の下に「共」。 *5)「凡そ二十三世、並びに筑紫の日向宮に都す」とあり、彦波瀲武草葺不合尊までは、九州日向に都をもっていたことになる。筑紫の日向宮とは、宮崎県の西都市周辺をさしている。 宋史は中国の正史の一つで、 1345年完成した宋代の歴史を記録した紀伝体の書16)で、雍熈元年は北宋時代(960〜1127年)の年号で、日本の永觀二年(984年)にあたる。また同史に、「彦瀲の第四子を神武天皇と号す。筑紫の宮より入りて大和州橿原宮に居す」 55)とある。「彦瀲尊」は、彦波瀲武草葺合不尊(熊野楠日尊)のことである。だから、二十四世は磐余彦尊(神武天皇)ということで符合している。「然は三論宗の東大寺僧で、平安京西の愛宕山に伽藍を建立するため、中国の天台山・五台山への巡礼を企図し、この前年に呉越の商人、陳仁爽、徐仁満の船に便乗し中国への渡海した 55)という。古事記は和銅五( 712)年、日本書紀は養老四(720)年にすでに成立して以来、264年も経った時期である。にもかかわらず、この王年代紀は記紀と異なる系譜を記している。中国は他国の王年代紀を改竄する筈もないし、僧・ 「然の持参したものは当時の真相を伝えていると考えられ、スサノオは国王だったことを図らずも中国の宋史が証明してくれている。記紀の云う皇国の本主はもちろんアマテラスで、日本の総社は伊勢神宮の筈である。しかし、大同五(810)年正月、嵯峨天皇は津島神社に、「須佐之男尊は即ち皇国の本主なり。故に日本の総社と崇め給いしなり」として、日本総社の号を奉られている。 また、一条天皇(寛和二(986)〜長元九(1036)年)は、津島神社に天王社の号を贈られた23)ことは先にも書いたが、記紀が編纂された後も、スサノオは天皇にとって如何に重要な存在だったかを物語っている。 同時に、天皇はもとより当時の人々にとって、記紀は全く無視されていたのかも知れない。少なくとも、まともに取り扱われていなかったのではないか。そんな疑念を抱かざるを得ない 23)という。 |