建国の始祖王 須佐之男尊

 摘 要   神代は創作    在世年代   神社が語る   建国の偉業   宋史が証す   史実を抹殺された   引用文献 
 出雲・大和一族の系譜   日向一族の系譜    弥生人の生存年代図 
【スサノオの活躍と建国の偉業】                    更新:2007年10月07日

 出雲国を創建

 スサノオは北方系モンゴリアン43)で、古代の大陸や朝鮮半島での度重なる戦乱に疲れた沸流国の一族が、出雲(島根県東部宍道湖周辺)に移住した子孫2)で、出雲沼田の豪族・布都の子43)としてBC188年頃に出雲で生まれたとみられる。

 そして18歳頃に、出雲で横暴を極めていた清田(現・雲南市大東町清田)の製鉄富豪・オロチを倒し、虐められていた稲田(現・仁多郡奥出雲町稲田)の娘・櫛稲田姫を助けて娶り、須賀(現・雲南市大東町須賀)の地に館を構えた。

 出雲での伝承から、櫛稲田姫は予てからスサノオの恋人だったとみる説2)もある。このとき、須賀の館に幾重にも垣根を造ってオロチの残党から櫛稲田姫との館を衛ったという。そして、「夜久毛多都、伊豆毛夜幣賀岐、都麻碁微爾、夜幣賀岐都久流、曾能夜幣賀岐袁(八雲たつ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣つくる その八重垣を)」とスサノオが詩を詠んだ68)69)という。この「伊豆毛」が、出雲の地名起原だとされている。

 スサノオは、父から受け継いだ稲作や製鉄等の先進技術を人々に指導したことから、庶民の生活安定に大きく寄与した。周辺部族や住民がスサノオの人柄や技術に期待をかけ、次々と出雲国に参加、そのうち出雲国王に推された。出雲風土記は、「須佐之男は仁慈の名君だった」と記している。

 スサノオは、出雲・隠岐を百八十六部に分け、それぞれに族長を置いて統治させ、陰暦十月には族長会議をひらいていたという。出雲国の統治に合議制を重んじたことが伺える。今流にいえば民主政治の始まりである。

 この月を出雲では神在月と呼び、出雲大社では十一日から七日間、神有祭・神在祭が行なわれる名残らしい。また出雲・隠岐以外の地では、族長(神)が不在になるので、この月を神無月と呼ぶようになった16)と云う。


 出雲から山陰・北陸を統合して和国を建国

 ともあれ、出雲国が次第に大きくなるなか、スサノオは自信を得て広く日本列島を先進技術で統合することを考えたのであろう。それには父親から学んだ技術だけでは不十分に感じ、更なる高度技術を導入するために次男の五十猛尊を連れて朝鮮半島に渡った痕跡が記紀にも記されている。

 出雲と朝鮮半島の交易ルートを安定確保するため、壱岐・対馬を出雲国に加盟させ、そこから朝鮮半島に渡り先進技術を次々と導入した2)とみられている。

 対馬はからは朝鮮半島が手に取るように見える程近く、対馬の北端には韓岬の地名がある。ここから船を出したのであろう。

 スサノオは、出雲国を建国した後、29歳頃に越前、加賀、能登、長門、筑前、豊前にも遠征し、国の統合交渉をすすめた。小部族が領土争いをしているよりも、話し合いで大同団結して先進技術を普及させ、住みよい国づくりをめざしたとみられる。越後(新潟県三島郡)の出雲崎町に出雲岬の地名があるが、その名残かと思われる。

 このとき、スサノオが建国した国名は「輪国」ではなかったかとみる説2)があるが、私は「和国」だったと思う。中国の史書は、音の似た「倭国」と書いているが、「倭」は中国人がつけた蔑称で、中国語では「ウオ」」と発音する。

 スサノオの建国した和国は、現在のような中央集権国家ではなく、豪族の連合体であろう。AD82年頃に書かれた中国の史書・「漢書」地理志によると、

 「樂浪海中有倭人、分爲百餘國」(倭人は楽浪海の中に在り、百余國に分かれる)とあるように、各地の豪族が支配する国々の連合体とみられる。

 領土や資源争い合いで殺し合う戦乱の愚かしさを父親・布都からいやという程聞かされていたであろう。話合いで共存共栄の道を探るというのが国づくりに賭けた信条だった筈である。スサノオにとって、「和」はいかに重要かは肝に銘じたものだったであろう。


 九州小諸国・木(紀伊)を統合、和国を拡大

 本州では、出雲におけるオロチ族との戦い以外は戦闘の痕跡や伝承はないが、話合いで合意の得られなかった部族もあったようで、BC136年頃、50歳過ぎに本格的に九州遠征を開始し、なかでは武力を行使した形跡もある。

 スサノオ軍の戦闘跡と断定できる確証はないが、北九州の吉野ヶ里遺跡(BC3世紀〜AD3世紀)の甕棺墓遺跡から発掘された甕棺には、腰骨に剣の刺さったものや首のない遺骸がみられ、戦闘の痕跡を物語っている。

 余談になるが、吉野ヶ里はBC210年に中国大陸から集団渡来した徐福一族等が、その後に建国した大型集落の首都だった可能性が高い。(徐福についてはこちらを参照)

 スサノオ一族は豊前に上陸し瞬く間に筑前・筑後、豊前・豊後を服従させて統治下に入れた。そして、筑紫は同行していた息子・大歳尊(オオトシ)に統治を任せ、自身は部下を従え豊国の宇佐(大分県北部)に拠点を構えた51)とみられている。

 北九州を統一した後、南九州の日向族の中心地、阿波岐原に遠征し、イザナギに和国への統合を呼びかけた。このとき、妃のイザナミと娘・向津姫(大日霊貴:記紀のアマテラス)は同意したものの、イザナギの配下たちはスサノオに支配されるのを拒絶して戦ったのであろう。イザナギはあえなく敗北し、スサノオはイザナギの命は助けて淡路島に流したとみられる。

 その証拠は、淡路島の伊弉諾神社(兵庫県津名郡一宮町多賀)に残っている。

 同社に伝わる「淡路国津名郡淡路町岩屋字明神縁起」に、「伊弉諾尊は淡路島の多賀の地に幽宮を構えて余生を過ごされた。その御住居跡に御陵が営まれ、至貴の聖地として最古の神社が創始されたのが当神社の起源である」と。

 南九州の日向国王だった筈のイザナギが、淡路島で余生を過ごしたというのである。

 また、スサノオは大阪湾岸地方にも遠征したが、河内族の統合には失敗したとみえ、次男の五十猛命等を連れて紀伊(木:和歌山)の統合に成功している。

 和歌山県内には須佐神社や須佐の地名が沢山残っており、五十猛尊は後に紀伊で最期を迎えたとみられ、木国の祖神として和歌山市伊太祈曽の伊太祁曽(いたきそ)神社に祀られている。伊太祁曽は五十猛(いたける)の字音から名付いたものとみられる。


 その後、スサノオは拠点を宇佐から日向の西都に移し、九州を統治するようになった41)とみられている。九州の呼び名は後世になって着けられたものであるが、もとは西海道の九国(筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩をいう)からきたものである16)

 この時、熊曾(くまそ)地方だけは統一に失敗した2)ようである。熊曾とは、上代の球磨(くま)の地と曽於(そお)の地との複合。古くは九州南半、日向・大隅・薩摩地方(宮崎県、鹿児島県)に当たる。

 律令時代の行政区画には、球磨(くま)に当たるものとして肥後国球磨(くま)郡の名があり、曽於(そお)は大隅国贈於(そお)16)の名がみえる。熊曾はその後、大和朝廷になってからも朝廷の意にそわなかったとみえ倭建尊はじめ幾度も熊曾征伐が行われたことが日本書紀にも記されている。


 スサノオの現地妻になった向津姫(アマテラス)

 ともあれ、スサノオは南九州もほぼ平定したものの、日向族の気持ちを和らげる必要もあり、イザナギの娘・向津姫を娶り現地妻にした2),43)とみられている。記紀の云う大日霊女貴尊(アマテラス)で、伊勢神宮の内宮祭神である。

 ついでながら、伊勢神宮外宮の祭神・豊受大神は原田常治氏43)によると、磐余彦尊(神武天皇)が九州に居た頃の日向妻・吾平津姫との間にできていた豊受姫だとみている。

 こうしてスサノオは、西日本・九州を次々と統一し、和国の拡大に成功したのがBC136年頃のこととみられる。

 それぞれの拠点に、御子・八島野尊や大歳尊、五十猛尊を、出雲には娘婿・大穴牟遲命(おおなむち=書記:大己貴尊)らを配置して統治を分担させていた記録が古神社の縁起や伝承から読みとれる。


 数年後、日向をはじめ南九州の国情がほぼ安定したのを見定めたスサノオは政庁を再び宇佐に遷し、日向には末娘・須世理姫の婿・大己貴(古事記では大穴牟遲:おおなむち)を呼び寄せ、政務を継がせた13)

 スサノオは、出雲を振り出しに山陰から北陸、瀬戸内、中四国、そして九州の一部を除いてほぼ平定し、和国の拡大に成功したのが50歳過ぎのことと考えられる。

 娘婿・大穴牟遲命(大己貴尊)は、正妻・須世理姫を出雲に残して日向に赴任し、スサノオと向津姫の間に出来た娘・多紀理姫を現地妻にして同居したようで、かつてスサノオが向津姫を現地妻にしたのと同じ手口である。

 向津姫はじめ、日向族らの支持・信任を得るには、それが最善の策だったのだろう。

 スサノオは、大己貴尊と向津姫(アマテラス)に後を託し、日向の統治を委ねたとみられる。その後、筑紫を統治していた三男・オオトシに大和東遷を命じ、出雲から長男の八島野尊を宇佐に呼び寄せ、後を統治させたようである。そして、スサノオは宇佐の政庁を引き揚げ、故郷・出雲に帰国した2),13),23),43)とみられている。

 スサノオが出雲に帰ってからも、向津姫(記紀のアマテラス)は度々、出雲に出向いた形跡があり、末子・熊野楠日(鵜葺草葺不合=記紀の神武天皇の父)命は、その名前からみてスサノオが出雲に帰ってから、まだ若かった向津姫との間に出来た御子2),43)とみられている。


 スサノオと向津姫(記紀のアマテラス)が夫婦関係にあったとみる史料に、島根県松江市佐草町にある八重垣神社の壁画が今に残っている。

 八重垣神社の壁画は、寛平五(893)年、宇多天皇が出雲国庁を造営したときに描かれたもので、当時の日本絵の巨匠・巨勢金岡が書いたという。

 何と、そこにはスサノオとその正妻・櫛稲田姫、天照大神、市杵島姫命、手名椎、足名椎の六神像が雄渾な筆遣いで描かれている。神社建築史上、類のない壁画とされ重要文化財になっている。

 八重垣神社の地は、在りし日の若きスサノオと櫛稲田姫の愛の館跡であり、その二人を中心にして櫛稲田姫の両親が描かれ、記紀の記述では敵対関係だった筈のアマテラスが同居し、アマテラスとスサノオの娘・市杵島姫までが描かれている。

 スサノオとアマテラスの夫婦関係は、記紀では隠蔽(いんぺい)されているが、宇多天皇時代(仁和三(887)〜897年)にはその関係ははっきりと伝わっていたのであろう。


 スサノオ出雲にて崩御 熊野山に葬られる

 九州を平定して後、北九州を猿田彦尊(八島野尊)にまかせて出雲に戻ったスサノオは、三男・オオトシに大和に東遷して近畿以東を統一するよう遺言して他界したと推定2)され、齢60〜75才だった13),23),51)とみられている。

 オオトシが、筑紫から讃岐へ遷ったのがBC122年、25歳頃とみられることから、スサノオが亡くなられたのはその前のことと推定でき、65歳で他界したとすれば、BC124年頃のこととみられる。

 スサノオの長男・八島野尊の諡号は、清之湯山主三名狭漏彦八嶋野尊(すがのみやまぬしみなさろひこやしまのみこと)68)とあることから、猿田彦は八嶋野尊の別名、または改竄名とみられる。

 島根県八束郡鹿島町大字佐陀宮内七二番地にある佐太神社の正殿に、「佐太御子大神」として祀られており、スサノオの御子ということだろう。

 長男・八島野尊は、スサノオの亡骸を島根県八束郡八雲村と広瀬町との境(現・松江市八雲町)、熊野山(又の名・天狗山、熊成峰)の山頂に葬られた51)とみられている。

 御神陵は八雲村大字熊野(現・松江市八雲町熊野)にある元出雲国一の宮・熊野大社の元宮の地とされている。熊野大社でのスサノオの祭神名は、「熊野大神櫛御気野命(くまのおおかみくしみけぬのみこと)」という諡号で祀られている。熊野山の御神陵と熊野大社の祭祀は、スサノオの末裔・出雲氏に継承され、現在に到っている51)という。


 神一行氏は、スサノオの最期は出雲に戻って間もなくのことだったとして、神社の縁起や伝承から次のようにみている。

 「人々は大王スサノオの死を悲しみ、出雲の熊野山に磐坐を造って葬った。いま、その麓に出雲国一宮・熊野大社(旧国幣大社)がある。出雲大社が出来るまでは、出雲地方最大・最高の神社だった。亡くなった場所はやはり出雲で、それも若き日に櫛稲田姫と新居を構えたあの須賀の都と山一つ隔てた八雲村熊野だった。勿論、彼の御陵はここにある。

 スサノオのお墓にその後、社を建てた。これが神社の創成時代となり、紀国・熊野でも社殿が築造された」13)という。

 紀州の熊野本宮大社は、崇神天皇の時代にスサノオの末裔・熊野連(ニギハヤヒの御子・天香語山命=高倉下命の子孫)が創建した(扶桑略記)とある。

 御陵の前に拝殿だけを造っているのは、スサノオを祀った出雲の熊野大社と、大和国を創建したスサノオの御子・ニギハヤヒ大王(オオトシ)を祀る大神神社(おおみわじんじゃ)桜井市三輪、崇神天皇時代の創建))が代表的で、御神体が山稜にあることを証している。

 古代の神社は山を御神体として拝んでいたと唱える説もあるが、山を拝んだのではなく山頂の磐座に葬られた御神体を拝んでいたのである。まだ古墳の造営が始まる以前のことである。

 大神神社(おおみわじんじゃ)の祭神は大物主神にされているが、この大神神社から御神霊を勧請したとされる栃木県惣社市の大神神社では、祭神・倭大物主櫛甕玉命としている。また群馬県桐生市の美和神社では、大物主奇甕玉尊とし、それぞれニギハヤヒの神名の一部を入れている。


 スサノオは、諸国を統一して国造りに努めただけでなく、住民の生活向上に心を配り、様々な事柄を開発・創始した。

 出雲では須賀の都に市場を拓き、熊野山の檜と卯木(うつぎ:ユキノシタ科の落葉低木・ウノハナとも)で鑽火器(きりびき)も創作した。出雲の熊野大社は別名を日本火出初社とも称され、境内に鑽火殿がある。

 彼はまた、田畑を荒らす鳥獣を射るために初めて竹で弓矢も作った。その故事に因んで今も行われている御狩祭は、後の江戸幕府第五代将軍・徳川綱吉時代の「生類憐れみの令」で狩猟禁止になったときも、特例をもって許されたお祭である13)という。

 またスサノオは、御子や部下たちを各地に派遣して土地開発や殖産興業を奨励し、人材を適材適所に登用する優れた指導者でもあった。神祖とは、神のなかの神、それは日本の国の創始者であり、文明の大始神を意味するとともに、死して神と化していった我々の祖先神ということであろう。スサノオは、まさしく我が国史上、最初にして最大の英雄だった23)とみられている。


 どんな組織や国にも、配下の能力を歎き更迭する為政者もいるが、部下の能力を見極め適材適所で能力を最大限に発揮させ、そして部下たちが喜んで苦労するようなリーダが居れば大成する。

 日本列島に初めて国らしい国を建国したスサノオは、そんな仁徳をもった英雄だった。出雲風土記は、「須佐之男は仁慈の名君だった」と称えている。

 天皇神社、天王社に祀られた皇国の本主、和国王・スサノオ尊は、まさしく建国の始祖王だった。死して神祖として崇められたスサノオ。嵯峨天皇は(大同四(809)年〜弘仁十四(823)年在位)、いみじくも「皇国の本主」と尊称したように、日本国の創世者として、すべての神の祖神として祀られた13)のである。

 当時はすでに記紀も編纂されて100年以上も経っていて、記紀に記されたスサノオの姿は誰の目にも明かだった筈であるが、嵯峨天皇は記紀の記述とは別に、真相史実をご存じだったのであろう。

 記紀はスサノオを初代天皇、または天神にしなかった。向津姫(大日霊女貴尊:アマテラス)とは夫婦だったが血縁関係がなかった。にも拘わらず記紀は、スサノオをイザナギ・イザナミの子としているのは、義理の父母ということであろう。


 大歳尊、スサノオの遺命を受けて大和に東遷、大和王国を創建

 スサノオの御子・オオトシ(改名・饒速日尊)は、スサノオの遺命を受けて大和に東遷し、三輪山麓に政庁を構え、大和国を建国したのがBC102年、ニギハヤヒ45歳の頃だった。父スサノオに見習って善政をしき、大和朝廷の始祖となり、66歳ぐらいで亡くなられBC81年頃、三輪山の磐座に葬られたとみられる。

 その麓に、第十代崇神天皇(推定在位:AD171-197年)が建てた大神神社があり、同社は皇室と同じ「菊の御紋」を社紋としている。

 ニギハヤヒは、皇祖・天照魂神として祀られていたが、異母兄弟の甥にあたる狭野命(伊波礼昆古命=磐余彦尊=記紀の初代・神武天皇)を、ニギハヤヒの末娘・御歳姫(古事記は三輪の大物主神の娘・伊須気依姫。書紀は事代主尊の娘・媛蹈鞴五十鈴媛と改竄している)の婿養子として大和に迎えたことから、万世一系の皇統譜に組み入れなかった。

 こともあろうに記紀は、伊波礼彦の東遷を、「神武東征」とし、大和を戦で征服したように書いているが、兄・五瀬尊他、数名での大和入りで、真相は婿入りの東遷だったことが歴然とした。

 その段取りは、日向国を統治していたスサノオの現地妻・向津姫をはじめ、大己貴尊の御子・阿遅鉏高日子根尊(武角身尊)とニギハヤヒの御子・天香語山(高倉下)尊が、直接の交渉役として立ち回ったようである。


 大穴牟遲(大己貴)命の最期と出雲の国譲り

 日向でスサノオの政務を継いだ大穴牟遲命(大己貴尊 以下、オオナムチ)は、出雲には御陵はなく43)、オオナムチを祀る古神社も見当たらない。あるのは、オオナムチが没して800年以上も経った記紀編纂頃に創建された出雲大社と、その後に建造された神社ばかりという。

 記紀は、スサノオやニギハヤヒの偉業を抹殺するために、オオナムチの業績を誇大に書いて「大国主神」にし、別名を「大物主」・「八千矛」などと書いている。そして、「大物主神」は「大国主神」の和魂(にぎたま)だと嘯いている。ともあれ、オオナムチはどこを探しても諡号は全くないのがそれを証している。

 オオナムチが住居にした跡地が、宮崎県児湯郡都農町大字川北に在る日向国一の宮・都農神社(祭神・大己貴尊)の境内と考えられ51)、西都市にある西都原古墳群の中に唯一、出雲式の四隅突出型古墳があり、これがオオナムチの御陵43)とみられている。オオナムチは、赴任先の日向で亡くなったとみられる。51歳頃のことである。

 スサノオの二代目を継いだオオナムチもBC95年頃に亡くなり、出雲の正妻・須世理姫との末子・武御名方富尊(武御名方)と、日向の現地妻・多紀理姫が生んだ末子・伊毘志都幣尊(事代主)の相続争いが起こり、武御名方は出雲を追われて諏訪大社(長野県諏訪市)の地に隠棲、これも善政をしいたと社伝が伝えている。

 武御名方尊はもちろん、ここに祀られている43)。これが、記紀が記す「出雲国譲り物語り」の真相だった。記紀は、国譲りの時に、オオナムチが恰も生きているように書いているが、これは大嘘だった。


前に戻る 次へ進む

 記紀に改竄された古代史の真相を糺す