建国の始祖王 須佐之男尊

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【スサノオ一族の在世年代を考証する】             更新:2007年10月07日

 記紀には、スサノオの活躍した時代、すでに稲田や籾、機織のことも書かれ、弥生時代だったことは確かである。BC三世紀からAD三世紀の600年間を弥生時代とされているが、果たしていつ頃のことであろうか。

 スサノオの活躍については後項で詳しく考察するが、ここではより確かな史料をもとに、スサノオの在世年代や活躍した年代を傍証してみようと思う。

 多くの研究者は、中国の史書「三国史記・魏志・倭人条(以下、魏志と略記)」に記されている「景初二(AD238)年・・邪馬臺国の女王卑彌呼に詔書して親魏倭王卑彌呼に制詔す」60)とある「女王卑彌呼(ひみこ)」を、古事記・日本書紀の天照大神(大日霊女貴尊=向津姫)に比定し、これに近い時代とみて、スサノオの生存年代をAD120年からAD190年頃のことと推定13)23)43)51)している。記紀は、女王・卑彌呼(ひみこ)を神功皇后に当てはめようとして年代を操作した疑いがある。

 しかし、魏志に登場する「女王卑彌呼」は、第八代孝霊天皇の皇女・倭迹迹日百襲姫(やまとととももそひめ)命(古事記では夜麻登登母母曽毘賣命)とみる説も多く、倭迹迹日百襲姫命の古墳とされている巨大な箸墓古墳(桜井市大字箸中)の環濠堤から「倭母母曾毘賣命墓 戊寅年十月廿日薨、御年八十四歳」と、石に刻まれた墓碑が発見され、在世はAD115〜198年、その後を継いだとされている臺与(豐鋤入日賣命:とよすきいりひめ)の墓碑が築山古墳(奈良県大和高田市築山)から発見され、「豊鋤入日賣命墓、戊辰年七月十四日薨 御年六十四歳」と解読されている。在世AD185〜248年に比定59)され、魏志の卑彌呼時代に最も近い人物とみられている。

 魏志の卑彌呼(ひみこ)は、日巫女(ひみこ)のことで、日を拝む巫女(みこ)を指し、特定の人名をさす名称でない。記紀の天照大神も大日霊女貴尊で、日霊女は日巫女と同意であるが、これで卑彌呼=天照大神(アマテラス)説は否定されるとみてよい。

 また、伴昌広氏2)は、スサノオはBC37年、朝鮮半島に在った沸流国が、北方からの度重なる侵攻で滅亡したとき、戦いに疲れた布都一族が日本列島に移住した子孫とみて、古神社の縁起や伝承に考古史料等を考証し、スサノオが誕生したのはBC35頃、亡くなったのがAD30年頃とみているが、確かな史料にもとづくものでなく、あくまで推定である。


 ところが、中国の史書・後漢書には、すでに建武中元二(AD57)年に「倭奴国が後漢に朝献し光武帝が印を授ける」という記録があり、江戸時代(1784年)になって博多湾沖にある志賀島から、その時に授けられたと思しき「漢委奴国王」という金印が発見された16)。これは、「漢が委ねた奴国王」と読める。

 多くの古代史学者は、「漢委奴国王」の「委」を、「倭」の人偏を省略したのではないかとみて、「漢の倭の奴国王」と勝手に読んでいる。しかし、漢字の国・漢が「委」と「倭」を混同するような書き方をするわけはない21)

 金印が正真正銘の金で出来ているとしながらも、多くの論考から確たる証拠もなく憶測だけで、金印「漢委奴国王」は贋作(がんさく)だと言い切っている学者82)もいるが、私はそう思わない。

 漢は、北九州に在った倭の奴国王から朝貢を受け、属国として金印を与えたのであろう。博多湾は往古、金印到来の頃は、「那の津」と呼ばれていたというから那国(なこく)の湾をさしていたと思われる。

 池田仁三氏は、福岡市博物館に展示されているこの金印の側面に「常根津日子命」の銘が刻まれていることを画像解析59)で発見した。

 常根津日子(とこねつひこ)命は、第三代安寧天皇の皇子81)で、北九州に在った奴国の統治者として大和朝廷から派遣されていたのであろう。

 福岡県糸島郡二丈町大字一貴山の「一貴山銚子塚古墳」近傍から発見された常根津日子命の墓碑銘が画像解析で、「丙寅年三月十六日御年四十七歳」と解読され、生存年はAD 20〜 66年59)とみられていて、後漢書の年代記述と合致する。金印側面の銘は常根津日子の没後、身内か側近が金印の側面に諡号を書き込んだものとみられる。

 古事記では、常根津日子命の弟とされている師木津日子(しきつひこ)命は、奈良県桜井市の桜井纒向勝山古墳近傍から発見された墓碑銘に、「戊辰年六月十五日御年五十一歳」とあり、AD18〜68年の在世と比定59)され、生存年からみて師木津日子命は兄になり、実在が証明されている。


 また、後漢書のAD107年条には、後漢の安帝王朝に、「倭國王師升等が生口百六十人を献じて請見を願う」という記事がある。

 倭國王師升等を、倭国王・師升等と読んでいる古代史家もいるが、これは大間違いで、正しくは「わ くにおしひと」と読むべきである。中国(漢)は当時、倭国という認識はなく、「倭」、「倭人」と見なしていて「倭国王」と書く筈はない。

 倭國王師升等は、第六代孝安天皇(大倭帯日子國押人(おおやまとたらしひこくにおしひと)81)・日本足彦国押人68))と考えられ、後漢書の記録と在世年代(AD 42〜118年)59)はよく一致しする。

 さらに、奈良県橿原市の慈明禅寺境内から発見された神倭伊波禮毘古命81)(神日本磐余彦天皇=初代神武天皇68))の墓碑が、画像解析によって「丙子年三月十一日御年六十三歳」と得られ、系譜からみて生存年代はBC107〜45年に比定59)されている。

 日本書紀によれば、「神武天皇は、辛酉年春正月庚辰朔、橿原宮に即帝位」とあることから、太陽暦に換算するとBC60年二月十一日となり、かつては紀元節だった。今もこの日は建国記念日とされている。伊波礼昆古命は九州の日向から東遷して、実に48歳の年になる。

 伊波礼昆古命(神武)は、多くの史料や古神社の縁起・伝承等から、スサノオの御子・饒速日尊の末子・御歳姫(日本書紀は媛蹈鞴五十鈴媛としているが、古事記は伊須気依姫としている)の婿養子として大和に東遷し、饒速日(以下、ニギハヤヒ)大王の後継となり、大和国王を継いだのが真相だった43)

 神倭伊波礼昆古命(神武天皇)の后・御歳姫(伊須氣余理比賣命)の没年は、「癸巳年六月十七日御年五十五歳」と判明しており、生存年はBC 82〜 28年と比定59)されている。

 天理市新泉町の大和神社(おおやまとじんじゃ)には、日本大国魂大神(ニギハヤヒ)・八千矛大神(スサノオ)・御年大神(御歳姫=伊須気依姫)が並んで祀られている。ニギハヤヒと親子である。


 一方、古事記は「爾藝速日(ニギハヤヒ)命が天瑞を(神武天皇に)奉りて仕えた」と書いているが、ニギハヤヒは当時すでに亡く、御子・宇摩志麻冶尊の時代であることも判明した。ニギハヤヒの末子・御歳姫(伊須気依姫)が幼い間は、兄の宇摩志麻冶尊が政務を代行していた13),23)ようで、ニギハヤヒの末裔が残した「先代旧事本紀」には、ちゃんとそのことが書かれている。

 古代は子供が生長すると、それぞれに新しい土地を求めて新規に国造りし、末子が相続する慣わしだった43)。伊波礼昆古命(磐余彦尊)も、スサノオと日向の現地妻・向津姫(大日霊女)の間に出来た熊野楠日尊(彦波瀲武??草葺合不尊)68)の末子で、スサノオの孫にあたる。

 スサノオと正妻・櫛稲田姫の末子・須世理姫も、大己貴尊を婿養子に迎えスサノオ亡き後、二代目和国王を継いでいる。この人は記紀で大国主とも呼ばれている人物である。末子相続の慣わしは、15代応神天皇以降で途絶えている43)という。

 ところで、スサノオの御子・都萬津比賣命、大屋津比賣命の没年は、和歌山市岩橋の岩橋前山古墳A46号石室及び、同B53号石室、同将軍塚から、それぞれ発見された墓碑の画像解析から、都萬津比賣命「戊寅年七月五日御年六十四歳」、大屋津比賣命「戊寅年九月二十一日御年五十六歳」59)と判明している。

 スサノオと向津姫の孫にあたる神武天皇の生存年代がBC107〜45年だとすれば、都萬津比賣命と大屋津比賣命の没年干支の「戊寅年」は、BC103年と比定できる。二人とも同じ年に相次いで亡くなっているところをみると事故死か、あるいは伝染病にでも冒されたのではないかとみられる。

 また、神武天皇の兄とされている五瀬命は、和歌山市岩橋の岩橋天王塚古墳の近傍から発見された墓碑の画像解析で、「戊午年六月三日御年五十四歳」とあり、生存年代は、BC116〜 63年59)とみられている。

 記紀によれば、伊波礼昆古(磐余彦)とともに、日向から出て大阪湾から古代の大和川を遡り、生駒山を越えて大和に入ろうとしたとき、日下の蓼津(書紀は孔舎衛とする。現大阪市日下町あたり)で鳥見の豪族・長髄彦の軍に撃たれて肱脛(ひじ)に矢傷を負い、大阪湾からのルートを諦め、船で熊野まわりで大和に入るべく引き返す途上、「紀伊国の竃山に到りて薨りましぬ。因りて竃山に葬めまつる」とある。

 肘に受けた矢傷がもとで命を落としたとは考えられず、たぶん傷口から破傷風菌(はしょうふきん)にでも感染したのであろうか。

 和歌山市和田の竃山神社は五瀬尊を祀り、その裏山に御陵が設けられ宮内庁が管理している。竃山神社は大正四(1915)年十一月に官幣大社に列せられている。


 スサノオや、御子・大歳尊(以下、オオトシ=ニギハヤヒ)の墓碑は見つかっていないが、オオトシと兄妹43)とされている都萬津比賣命、大屋津比賣命、またスサノオの孫にあたる伊波礼昆古命(神武天皇)の生存年代から大凡の在世年代は推定できる。

 また、スサノオ没後の祭祀遺物かとみられる島根県雲南市加茂町の加茂岩倉遺跡から平成8年10月、大量の銅鐸が出土し、BC2世紀前半〜AD1世紀前半のものとみられている他、昭和58(1983)年から発掘された同県簸川郡斐川町の荒神谷遺跡でも、銅鐸・銅剣・銅矛が発掘され、銅鐸はBC2世紀初頭〜BC1世紀前半の祭祀に使った遺物とみられている。

 これら考古遺物は、スサノオの死後に始まった祭祀用具とみられる。こうした各種史料から次のように推定できる。


 スサノオの在世年代は、御子・都萬津比賣命、大屋津比賣命、また孫にあたる五瀬尊、伊波礼昆古命(神武天皇)の生存年代59)から推してBC188年頃に生まれ、没年齢を65歳13)23)とみれば、BC124年頃に亡くなられたとみられる。

 スサノオは18歳頃、出雲で櫛稲田姫を娶り須賀の地に館を構えたのがBC171年頃とみられる。

 櫛稲田姫を正妻として、間もなく長男・八島野尊(諡号:清之湯山主三名狭漏彦八島野尊)が生まれた後、出雲国を創建し、次いで次男・五十猛尊、43歳頃に第五子・大歳尊、そして都萬津比賣命(BC166〜103年)、大屋津比賣命(BC158〜103年)が生まれたとみられる。

 末子・須世理姫が生まれたのは、スサノオが45歳(BC144年)頃と推定される。跡取りの須世理姫は、出雲で大穴牟遲命(おおなむち=大己貴尊)を養子に迎えてスサノオ家を継いでいる。

 スサノオは、出雲国を建国した後、山陰から北陸各地に遠征して国家統合をもちかけ交渉し、和国を建国した。日本列島に国らしき国を建国したのがこれが始まりだった。嵯峨天皇は、いみじくも「皇国の本主」と称えている。

 引き続き九州各地の統合を目論んだ。しかし、すんなりと合意の得られなかった部族集団もあったようで、BC136年頃から次男・五十猛尊(31歳頃)、三男・大歳尊(11歳頃)を連れ、豪族部隊を率いて筑紫に遠征し、北九州各地の豪族を説き伏せ、和国を拡大したとみられ、豊国の宇佐(大分県宇佐郡安心院町)に拠点を置いたとみられる。

 北九州の各地を平定した後、南九州へと向かい、日向族の拠点・阿波岐原(現在の宮崎市街地の東端)2)に遠征し、日向の国王イザナギに連合を呼びかけたが拒絶され、イザナギと戦ったとみられる。しかし王妃イザナミや娘・向津姫はスサノオの人望に惹かれて、和国に連合することを合意したようである。

 そのとき、スサノオは27歳くらいの向津姫と政略結婚したとみられている。向津姫を宇佐に連れ帰り、安心院町の妻垣神社の地で同棲したとみられ、その後、多紀理姫・多岐都姫・市杵島姫が生まれている。また、BC133年頃に熊野楠日尊(神武天皇の父)が生まれたとみられる。

 スサノオは九州地方の政情が安定したのをみて、大己貴尊(大穴牟遲命)と向津姫に後を托し、故郷・出雲に帰りBC124年頃、65歳くらいで亡くなられたとみられる。

 ところで、島根県簸川郡佐多町宮内(もと須佐村、現在・出雲市佐田町)に在る須佐神社(須佐大宮)には、祭神・須佐之男命・稲田比売命・足摩槌命・手摩槌命(須佐家祖神)が祀られ、社伝に「ここはもと国幣小社で、社殿の造営・改修は武将藩主によって行うのを例としてきた。また、須佐家は須佐之男命の神裔であることから須佐国造に任ぜられ、今日まで連綿と七十八代を経ている(AD2004年現在)」51)という。

 斎主一代を平均27年余とみれば、2128年余り続いていることになり、BC124年頃スサノオの没後から祭祀が始まっていることがわかる。


 長男・八島野尊や部下の豪族らは、スサノオの遺骸を熊野山に埋葬し、建国の偉業を偲んで祭祀を始めたとみられ、加茂岩倉遺跡(島根県雲南市加茂町)や荒神谷遺跡(島根県簸川郡斐川町)から出土した紀元前2世紀初頭のものとされている銅鐸や銅剣・銅矛は、まさにスサノオ祭祀の遺物と考えて間違いない。

 出雲風土記の大原郡神原郷に、「神原郷 郡正北九里。古老 傳 云所造天下大神之 御財 積給 處。則、可2「神財郷」1。而、今人 猶 誤 云2「神原郷」1耳」とある。

 これを筆者なりに読み下すと、「神原の郷は、郡家の正北九里。古老の伝えに云うには、天の下 造らしし大神(スサノオ)の御財を積置き給いし処なり。即ち神財郷(かむたからのさと)と云うべし。今の人は誤って聞き神原郷(かむはらのさと)と云う」と。本来は神財郷(かむたからのさと)と呼んでいたことになる。

 天平五(733)年に撰録された出雲風土記は、すでに荒神谷遺跡の存在を正確に示唆していたことになる。


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 記紀に改竄された古代史の真相を糺す