聖徳太子の真相を糺す

太子の実像を求めて

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総 合 考 察

要 約  と 結 論

事実小説よりなり

書紀に騙された悲劇

文 献・資 料

【聖徳太子の実像を求めて】               編集/更新:2008年06月11日
  我が国の古代正史・日本書紀(以下、書紀と略記。古事記と合わせて表記する場合は、記紀と略記する)は、飛鳥時代に朝廷を転覆、乗っ取った征服王朝の記録だった。

 その記述は、権力により史実を改竄(かいざん)・偽作し、弥生時代から祀られてきた古神社の祭神や縁起まで改竄され、そのうえ書紀の記述に合わせて造られた神社も幾つかあった。

 国民は長らく記紀に騙し続けられ、国家の黎明の記憶を失ってきた。このことは、すでに「記紀に改竄・抹殺された日本の古代史」100)で詳しく考察した。


 昭和初期生まれの私らは、飛鳥時代に活躍したとされる聖徳太子は、冠位を定めて十七条憲法を制定し、役人や豪族の執務規程を厳しく定め、朝廷中心の政治基盤をつくった古代の英雄だったと教えられた。

 また、我が国が誇る古代の英雄政治家で、遣隋使を派遣して大陸文明の導入に努め、早くから仏教を深く信仰しながら國教として広めた聖人だった。かつては、一万円札や五千円札の肖像としても親しまれたものである。

  書紀によれば、太子・厩戸皇子は、「更は名づけて豊耳聰聖徳と云う。或いは豊聰耳大王と名く。或いは法主王と云す」とあり、

 「生れましながら能(よ)く言(ものい)ふ。聖の智有り。壮に及びて、一に十人の訴を聞きたまひて、失ちたまはずして能く辨(こた)へたまふ。兼ねて未然を知ろしめす」とあり、生まれながらにして良くものを云い、聖の知恵と判断力に富み未来を予知できる偉人で、一度に十人の訴えを聞いても間違いなく対応したと云う。

 全般に極めて冷淡、事務的に記している書紀は、太子・厩戸皇子についてはその記述は感情を込めた書き方をしており、あまりにも装飾、誇張されているようで、真偽の程は疑わしくこれまでにも多くの研究がなされてきた。しかし、なお謎が多く、聖徳太子の実像は霧の彼方である。

聖徳太子及び二王子像(法隆寺)

聖徳太子及び二王子像
(法隆寺蔵)


 飛鳥・奈良時代の古代史を追究する者にとって、聖徳太子の真相をを明らかにしなければ時代を下れない。その実像を解明し、太子の偉業はどこまで史実だったのか。どの点が偽作だったのかを明らかにしたいと思う。

 「聖徳太子は架空の人物だった」と断定する説や、太子を批判した論調も多数ある。だとすれば、創作された意図やその背景を推理しようと思う。太子批判の論拠も明らかにしなければならない。

 聖徳太子に縁(ゆかり)の深いとされる法隆寺は、後に太子の怨霊(おんりょう)を沈めるために、当時の皇室や藤原氏の思惑によって再建された96)と云うが、果たしてその真相はどうかも検証しようと思う。歴史の追究は史実の証(あか)しを探し求めることにある。

 人は歴史の中に育ち歴史を育てていく。蟹(かに)は己の甲羅(こうら)に似せて穴を穿(うが)つ如く、ある人は大きく、あるいは小さく、深く、浅く、分相応に様々な足跡を描いて、この世を去っていく。

 この国、このふる里の長い歴史を教訓に、身の回りに起こっている今の問題、明日の課題にどう対処すべきかを考える指針にできたらと思う。


 古代史関係の文書は古漢字が多く、ご覧いただくパソコンに古漢字フォントがインストールされていないと、?マークになります。極力、( )書きで読みをひらがな書きしました。

更新:2008年06月11日  山人 記


2008/6/11 

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