聖徳太子の真相を糺す

太子の実像を求めて

研究経過と問題点

太子の系譜

太子と蘇我馬子の死

太 子 の 陵 墓

実像と足跡を探る  物部戦争  四天王寺の創建   遣隋使の派遣

冠位と十七条憲法制定

天皇記 国記撰録

太子批判の著作を見る

謎の法隆寺(斑鳩寺)

法隆寺は怨霊封じ

元興寺縁起を読む

実在の物的証拠

1 三 経 義 疏

2 天皇紀・国記等

3 天壽國曼荼羅繍帳

4 十 七 条 憲 法

5法隆寺献納物

総 合 考 察

要 約  と 結 論

事実小説よりなり

書紀に騙された悲劇

文 献・資 料

太子の実在を証す物的証拠(4)
【十七条憲法は はたして太子の創作か】   編集/更新:2007年10月08日

 十七条憲法(憲法十七条、十七条の憲法とも言う)とは、書紀、先代旧事本紀に、推古天皇12年(604年)に、「夏四月 丙寅朔戊辰(3日) 皇太子親肇作憲法十七條」と記述されている17条からなる条文である。この皇太子は、「厩戸豊聡耳皇子(厩戸皇子:聖徳太子)」であるとされてきた。

 この憲法は、今日で言う憲法とは異り、官僚や貴族に対する道徳的な規範を示したものである。

 儒教(例えば第1条の「以和爲貴」和ぐを以て貴しは、孔子の[論語]第1卷学而第1「有子曰 禮之用和爲貴」、(礼をこれ用うるには、和を貴しとなす)が引用元である)、仏教の思想が習合されており、法家、道教の影響も見られるという。


 十七条憲法は、書紀に全文が引用されているものが初出であり、これを遡る原本も、写本も現存しない。ちなみに、聖徳太子の書いた十七条憲法の原書が法隆寺に残されていると噂されているらしいが、真偽の程は不明である。

 推古天皇12年(604年)に成立したという記録は、書紀や先代旧事本紀の記述を信じるほかない。

 「上宮聖徳法王帝説」によれば、少治田天皇御世乙丑(605)年。「一心戒文」によれば602年とあり、近代歴史学の誕生とともに、これには疑いも掛けられてきた。

 津田左右吉は、1930年の「日本上代史研究」において、十七条憲法に登場する「国司・国造」という言葉や、書かれている内容は推古朝当時の政治体制と合わず、後世すなわち、書紀編纂ごろに作成されたものであろうとしている。

 森博達も、「日本書紀の謎を解く(1999)」において、十七条憲法の漢文の日本的特徴(和習)から、7世紀とは考えられず、書紀編纂とともに創作されたもの97)とみている。


 しかし坂本太郎は、「聖徳太子(1979)」において、「国司」は推古朝当時に存在したと見てもよく、律令制以前であっても官制的なものはある程度存在したから、書紀の記述は肯定できる97)とした。

 石田尚豊も、憲法十七条は全部についても理論的な骨子を、太子が作ったということは十分あり得たとみており、国司というのは後世のような国司ではないが、前国司的なものは既にできていたとみられ、太子時代の役人名称とみられると云う。


 このように、太子の作か、どうかについては判断が分かれ決着がついていない。

 しかし谷沢永一は、十七条憲法は書紀編者の作文で、書紀以前に記録された痕跡はない。しかも、「憲法」という漢字二文字の表現が法典の意味で用いられている確かな記録は、延暦十五(796)年までの完成とみられる「続日本紀」に初めてみられ、それははるか後世のもので、太子・厩戸皇子時代の文言ではない87)という。

 書紀の編纂の前後に、藤原不比等らは大宝元(701)年に「大宝律令」を策定し、さらに養老二(718)年には大宝律令を改修した「養老律令」を作成して天平勝宝九(757)年に施行されている16)

 以上のような所見や史実を考え合わせると、十七条憲法はどうやら太子・厩戸皇子の作とは信じがたい。


 推古紀「十二(604)年夏四月の丙寅の朔戊辰(三日)に、皇太子、親ら肇めて憲法十七條作りたまふ」69) とあり、以下に書紀に書かれた憲法十七條の全文を引用する。

 

 

 一に曰(い)はく、和(やはらか)なるを以て貴(たふと)しとし、忤(さか)ふること無きを宗(むね)とせよ。
人皆
(ひとみな)(たむら)有り。亦達(またさと)る者少し。是(ここ)を以て、或いは君父(きみかぞ)に順(したが)はず。乍隣里(またさととなり)に違(たが)ふ。然れども、上和(かみやはら)ぎ、下睦(しもむつ)びて、事を論(あげつら)ふに諧(かな)ふときは、事理自(ことおの)づからに通(かよ)ふ。何事(なにごと)か成(な)らざらむ。

 

 

 二に曰はく、篤く三寶(さむぼう)を敬へ。
三寶とは佛・法・僧なり。則ち四生の終歸
(おはりどころ)、萬(よろづ)の國の極宗(きはみのむね)なり。何の世、何の人か、是の法を貴びずあらむ。人、尤悪(はなはだあ)しきもの鮮(すくな)し。能(よ)く教ふるをもて從ふ。其(そ)れ三寶に歸(よ)りまつらずは、何を以てか枉(まが)れるを直(ただ)さむ。

 

 

 三に曰はく、詔を承りては必ず謹め。
君をば天とす。臣をば地とす。天は覆ひ地は載
(の)す。四時順(よつのときしたが)ひ行ひて、萬気通ふこと得。地、天を覆はむとするときは、壊るることを致さむ。是(ここ)を以て、君言(きみの)たまふことをば臣承(やつこらまうけたまは)る。上行(かみおこな)ふときは、下靡(しもなぴ)く。故、詔(みことのり)を承りては必ず慎(つつし)め。謹(つつし)まずは自(おの)づからに敗(やぶ)れなむ。

 

 

 四に曰はく、群卿(まへつきみたち)百寮、禮を以て本とせよ。
其れ民を治むるが本、要
(かなら)ず禮(ゐやび)に在り。上、禮(ゐやび)なきときは、下齊(ととのほ)らず。下禮無(ゐやぴな)きときは、必ず罪(つみ)有り。是を以て、群臣禮有(まへつきみたちゐやぴあ)るときは、位(くらゐ)の次亂(ついでみだ)れず。百姓禮(おはみたからゐやぴ)有るときは、國家自(あめのしたおの)づからに治(をさま)る。

 

 

 五に曰はく、餮(あぢはひのむさぼり)を絶(た)ち欲することを棄てて、明(あきらか)に訴訟(うたへ)を辨(さだ)めよ。
其れ百姓の訟
(うたへ)、一日に千事あり。一日すらも尚爾(なほしか)るを、況(いはむ)や歳(とし)を累(かさ)ねてをや。頃訟(このごろうたへ)を治(をさ)むる者、利を得て常(つね)とし、賄(まひなひ)を見ては■(言+献:ことわりまう)すを聽く。便(すなは)ち財(たから)有るものが訟(うたへ)は、石をもて水に投(な)ぐるが如(ごと)し。乏(とも)しき者(ひと)の訴(うたへ)は、水をもて石に授ぐるに似(に)たり。是を以て貧(まづ)しき民は、所由(せむすぺ)を知らず。臣の道亦焉(みちまたここ)に闕(か)けぬ。

 

 

 六に曰はく、悪を懲し善を勸むるは、古の良き典なり。
是を以て人の善
(ほまれ)を匿(かく)すこと无(な)く、惡(あしきこと)を見ては必ず匡(ただ)せ。其れ諂(へつら)ひ詐(あぎむ)く者は、国家(あめのした)を覆(くつがへ)す利き器なり、人民を絶(た)つ鋒(と)き劒なり。亦佞(かだ)み媚(こ)ぶる者、上に對ひては好みて下の過を説き、下に逢ひては上の矢を誹謗(そし)る。其れ如此の人、皆君に忠(いさをしさ)(な)く、民に仁(めぐみ)(な)し。是大きなる亂の本なり。

 

 

 七に曰はく、人各任有(ひとおのおのよさしあ)り。掌ること濫(みだれ)ざるべし。
其れ賢哲官
(さかしひとつかさ)に任すときは、頌(ほ)むる音則(こゑすなは)ち起る。奸(かだま)しき者、官を有(たも)つときは、禍乱(わざはひみだれ)則ち繁し。世に生れながら知るひと少し。剋(よ)く念(おも)ひて聖と作(な)る。事に大きなり少(いささけ)き無く、人を得て必ず治(をさま)らむ。時に急き緩(おそ)きこと無し。賢(さかしひ)に遇(あ)ひて自づからに寛なり。此に因りて国家永久にして、社稷危(くにあやふ)からず。故、古の聖王、官の爲に人を求めて、人の爲に官を求めず。

 

 八に曰はく、群卿百寮、早く朝(まゐ)りて晏(おそ)く退(まか)でよ。
公事鹽靡
(おほやけのわざいとな)し。終日(ひねもす)に盡し難し。是を以て、遅く朝(まゐ)るときは急きに逮(およ)ばず。早く退づるときは必ず事盡きず。

 

 九に曰はく、信は是義の本なり。事毎(ことごと)に信有るべし。
其れ善悪成敗
(そよさあしさなりならねこと)、要ず信に在(かならずまことあ)り。群臣共(まへつきみたちとも)に信(まこと)あらば、何事か成(な)らざらむ。群臣信无(まつへきみまことな)くは、萬(よろづ)の事悉(わざことごとく)に敗れむ。

 

 

 

 十に曰はく、忿(こころのいかり)を絶ち瞋(おもへのいかり)を棄てて、人の達(たが)ふことを怒(いか)らざれ。
人皆心有
(みなこころあ)り。心各執(おのおのと)れること有り。彼是(かれよみ)すれば我は非(あしみ)す。我是(われよみ)すれば彼は非(あしみ)す。我必ず聖に非(ひじりにあら)ず。彼必ず愚(おろか)に非ず。共(とも)に是凡夫(これただひと)ならくのみ。是(よ)く非(あし)き理(ことわり)、■(言+巨:たれ)か能(よ)く定(さだ)むべけむ。相共(あひとも)に賢(かしこ)く愚なること、鐶(みみかね)の端(はし)(な)きが如(ごと)し。 是(ここ)を以て、彼人瞋(かれひといか)ると雖(いふと)も、還(かへ)りて我が失(あやまち)を恐れよ。我獨(ひと)り得(え)たりと雖(いへど)も、衆に從(したが)ひて同じく擧(おこな)へ。

 

 十一に曰はく、功過を明に察て、賞し罰ふること必ず當てよ。
日者
(ひごろ)、賞(たまひもの)は功(いさみ)に在(お)きてせず。罰は罪(つみなへはつみ)に在(お)きてせず。事を執(と)れる群卿(まへつきみたち)、賞(たまひもの)し罰(つみな)ふることを明むぺし。

 

 十二に曰はく、国司(くぬのみこともち)・國造(くにのみやつこ)、百姓(おほみたから)に斂(おさめと)らざれ。
國に二の君非ず。民に兩の主無し。率土
(くにのうち)の兆民(おほみたから)は、王を以て主とす。所任(よさせ)る官司(つかさみこともと)は、皆是王の臣なり。何にぞ敢へて公と、百姓に賦斂(おさめとら)らむ。

 

 十三に曰はく、諸の官に任(よさ)せる者(ひと)、同じく職掌(つかさこと)を知れ。
(ある)いは病(やまひ)し或いは使(つかひ)として、事を闕(おこた)ること有り。然(しか)れども知ること得る日には、和(あまな)ふこと曾(むかし)より識(し)れる如(ごと)くにせよ。其れ興(あづか)り聞かずといふを以て、公の務をな防げそ。

 

 

 十四に曰はく、群臣百寮、嫉み妬むこと有ること無(なか)れ。
我既
(すで)に人を嫉(うらや)むときは、人亦(また)我を嫉む。嫉み妬む患(うれへ)、其の極(きはまり)を知らず。所以(このゆゑ)に、智己(さとりおのれ)に勝るときは悦(よろこ)びず。才(かど)己に優るときは嫉妬(ねた)む。是を以て、五百(いほとせ)にして乃今賢(いましいまさかしひと)に遇(あ)ふ。千載(ちとせ)にして一の聖を待つこと難し。其れ賢聖(さかしひとひじり)を得ずは、何を以てか國を治めむ。

 

 十五に曰はく、私を背きて公に向くは、是臣が道なり。
凡て人私有るときは、必ず恨
(うらみ)有り。憾有(うらみあ)るときは必ず同(ととのほ)らず。同(おなじか)らざるときは私を以て公を妨ぐ。憾起(うらみおこ)るときは制(ことわり)に違ひ法を害(やぶ)る。故、初の章に云へらく、上下和(かみしもあまな)ひ諧(ととのほ)れ、といへるは、其(そ)れ亦是(またこ)の情(こころ)なるかな。

 

 十六に曰はく、民を使ふに時を以(も)てするは、古(いにしへ)の良き典(のり)なり。
故、冬の月に間
(いとま)有らば、以て民を使ふべし。春より秋に至るまでに、農桑(なりはひ・こかひ)の節なり。民を使ふべからず。其れ農せずは何をか食はむ。桑(こかひ)せずは何をか服(き)む。

 

 

 十七に曰はく、夫れ事獨(ことひと)り断(さだ)むべからず。
必ず衆と論
(あげつら)ふべし。少(いささけ)き事は是軽(これかろ)し。必ずしも衆とすべからず。唯大(ただおほ)きなる事を論ふに逮(およ)びては、若(も)しは失(あやまり)有ることを疑(うたが)ふ。故(かれ)、衆と相辨(あひわきま)ふるときは、辭則(ことすなは)ち理(ことわり)を得69)

前に戻る 次に進む

魅惑のくだもの チェリモヤ  記紀に改竄された古代史の真相を糺す