調月(つかつき)の歴史

本サイトは 和歌山県紀の川市桃山町調月「つかつき」の地名起原や故事来歴を尋ね昔話や民話を紹介します


 近世以降の調月   編集・更新:2007/10/03

 調月郷と云われた当時は吉仲庄に属し、小倉庄とともに埴埼郷内の地であったが、郷名廃止後、丸栖との二村が吉仲庄と呼ばれ、天正年間(1573〜1592)に丸栖は小倉組に属し国領となり、当村は高野山寺領28)となっている。

 天正4(1576)年、山野の所有権をめぐる争論から、田中荘の住人が荒川庄へ乱入、下司 イメージ調月庄の地士・橋口甚太郎が壇村にて戦死。調月庄橋口隼人正(甚太郎の兄)あてに、「貴殿の弟を討ち殺し申し訳ない」と、田仲庄年寄ら詫び状を入れる7)など、近隣ではこの頃もなお境界争いが続いた。

 一方、天正9年、織田信長が高野攻め命令を出し、翌年調月庄の中俊猛(木食応其の娘、於駒の夫)が高野山へ馳せ参じ戦功を上げたが、本能寺の変で信長が自殺、高野攻めが中止となった4),7)。しかし、天正13(1585)年、今度は羽柴秀吉の紀州攻めで、根来寺を焼き討ち16)し、その頃、調月稲葉の日前寺や井上の薬師堂など各地の寺々が焼失したと見られ、山論や兵火11),14)が相次いだ。


 天正20(1592)年8月4日、高野山剃髪寺創建にあたり、太閤秀吉が下した金剛峰寺惣中宛の寄付加増一万石の目録の中に、調月1237石17)とある。なお、慶長元(1596)年、大地震で崩れた京都方広寺大仏殿の再建供養のための人足として、荒川荘神田村から10人(中略)、野田原村から10人、黒川村から10人、調月庄から19人など、合わせて人足400人を出すこと。

 さらに元禄6(1693)年、高野山行人方領調月庄の用水池の樋を早く取り替えて欲しいと百姓どもが訴える。普請に必要な費用を検討し、行人方の蓮明院・正賢院からの請求を、学呂方功徳院から郡奉行へ提出されたい6)とあり、また、文久3(1863)年、高野山が天誅組の来山に備え地士を招集。安楽川荘、調月庄の地士らも登山17)するなど、高野山の支配、服従が連綿と続いていたことが伺い知れる。


 時代は少し遡るが、慶長20(1615)年、大阪夏の陣に際し、荒川荘の山本角左衛門、奥出羽守、奥孫兵衛、平野八郎右衛門将、城孫右衛門、調月庄の中勝助らが大阪城に入り、真田幸村軍に属す。大阪城の豊臣秀頼と母淀君は城内で自害し、豊臣家は滅亡。調月庄の中勝助らは敗退する6),16)とあり、ようやく戦国時代が終わりを告げた。

 明治2(1869)年8月、安楽川荘、調月庄、細野荘が堺県に編入され、翌3年2月、荒川荘、調月庄、細野荘が堺県から五条県に移った16)うえ、明治4(1871)年の廃藩置県により、紀州藩が和歌山県となり、同年11月、調月庄調月村となる6),19)など、この頃、立て続けに所轄が変わった。調月村はこの年、ようやく高野山の支配から離れることとなった。


 ところが、明治5(1872)年11月、太政官布告で徴兵告諭が下布される。陸海二軍を備え、全国民男児20歳に至る住民は、すべて兵籍に編入。緩急の用に備え各地に鎮台を置き、兵部省が統括。ただし、官吏、国立学校生、戸主、嗣子、独孫、270円以上の納税者は兵役免除、その他の20歳以上は3年間の兵役義務となり、徴兵忌避のために分家を急ぐ者もいた6),17)という。

 明治9(1876)年4月、大歳神社の神宮寺に調月小学校が創立。後、明治29(1896)年3月、調月尋常高等小学校に改称19),28)された。

 明治12(1879)年1月、大小区制を廃止し、新たに部落制となったとき、調月戸長は中勝助。また、明治15(1882)年11月、町村制が施行され、那賀郡は144村となっている。当時、調月村戸長は小薮龍之助17)が務めている。


 明治維新(天保12(1841)年から始まった幕府の政治改革改革から明治憲法成立の明治22(1889)年まで)以前は、調月村添田村銚子ノ口村が独立して、それぞれ庄屋が村治を司っていた。

 しかし維新後、三村が統合され調月村となり、山田達之助が初代の戸長をつとめた。当時、那賀郡は数区に分かれており、当村は第三区の五小区として、区役所は元安楽川村市場に置かれていた。明治17(1884)年7月、区役所が廃止され、町村独自の行政組織に改革され、第六小区と改められた28)と云う。

元 調月村役場  

 戸長当時は、役場の位置は一定せず、しばしば空屋を利用している。明治22(1889)年、町村制の施行により、独立した村役場となってからも薬師寺大日寺大歳神社の社務所等が村役場に当てられていたが、同36(1903)年、旧調月村役場(左の写真)の位置に落ち着いた14)という。

 旧調月村役場はその後、調月公民館となり、現在は大日寺会館となっている。

 明治43(1910)年末の人口は2,109人。大正7(1918)年末、2,202人とあり、大正9(1920)年10月1日付けの初めての国勢調査によると、世帯数417戸、現在者数1,897人17)と、調月の人口は明治43年よりも幾分減少している。

大日寺境内に今も残る元調月村役場(現在:大日寺会館)

 明治44(1911)年4月、坂本文三郎が村長に就任。大正9年まで8年9ヶ月を努め、この間トンネル池とその水路建設に私財を投げ打って尽力、8カ年の歳月をかけて完成させた16),28)功績は今も語り継がれている。


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