紀州那賀郡調月荘の歴史

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 本サイトは、平成20年4月20日、紀の川市桃山町の歴史の会研修会における松田文夫氏の講演資料をもとに、同氏の了解を得て、筆者の手持ち史料を追加して編集したものです。 (2008年4月28日)

大和・飛鳥時代             (編集・更新:2010/04/16

 大和時代とは、古代国家成立から六世紀頃までの間で、大和朝廷が支配していた時代を云う。

 また、飛鳥時代は、奈良盆地の南部、飛鳥の地に都があった時代。推古天皇即位の年から元明天皇の平城京遷都の和銅三(710)年、あるいは持統天皇の藤原京遷都(694年)までをさす4)

 宣化・欽明両朝の大臣蘇我稲目、欽明から推古朝の大臣蘇我馬子が百濟から仏教を導入し、我が国初の仏教寺院・法興寺(飛鳥寺)を創建、その後仏教文化が栄えた。


 吉仲(よしなか)荘と調月(つかつき)の地名起源

 当地(吉仲荘)は、今から千四百六十余年前、欽明天皇(天國排開廣庭命)の王子・吉仲麻呂(菅吉永)が丸栖を含めて所領したことから、吉仲荘と呼んだ5)という。

 那賀郡誌や調月村郷土誌によると、「欽明天皇(在位539-571年)の時代、皇子・吉仲麻呂(菅吉永)が、葛城山麓を流れる紀ノ川辺を絶景の地と見立てて十景山と称し、この地に一宇の幽居を築き、・・(中略)・・、山に遊び川を観、詩歌の日々を送っていた。

 土民は親しみ家を移して里をなした。その下に一舎を建て、麻呂栖と称し、また宮尾帝林御食地にも一舎を建て陸遊の処となし云々と、大歳神社縁起」5),17),28)にある。麻呂栖とは、吉仲麻呂の住み家をさし、丸栖の語源となったとされている。

 十景山と称する山は今はなく、どこをさしたかは不明であるが、状況証拠からおして考えると、吉仲荘丸栖村(現貴志川町丸栖)に在る御茶屋御殿山あたりかとみられる。

 ところで、欽明天皇には皇后の他に幾人かの妃があったことは古事記・日本書紀(以下、記紀、日本書紀を紀、古事記を記と略記)に出ていて、幾人かの王子がみられるが、吉仲麻呂(菅吉永)と名乗った王子は見当たらない。

 後出の紀男麻呂宿禰が従者として仕えたとあること、また吉仲麻呂が没後、紀男麻呂宿禰が当地を継承していることからみて、たぶん欽明天皇と紀氏一族の女性から生まれた王子かとみられる。


 推古天皇六(598)年、吉仲麻呂は亡くなり5)、紀男麿宿禰調月(ちょうげつ)が推古天皇十一(603)年に当地に来て、耕作の道を教え村を拓いたことから、その人の名が地名になった14),17),20),28)とされてきた。

 しかし、幾つかの古文書を年代考証すると、紀男麻呂宿禰が当地に来たのは推古天皇(在位593-628年:女帝)の時代のことである。

 吉仲麻呂が健在の用明天皇二(587)年、すでに調月の地名が決まっていたことが新たにわかった。

 紀男麿宿禰は、自身を調月(ちょうげつ)と名乗ったのも、当地に来てからのことであろうと思われる。大和朝廷の臣下として活躍していた頃には紀男麿宿禰調月と名乗った記録は、記紀にも見当たらない。

 また、調月を「つかつき」と読ませたことについて、あれこれ調べた結果、古文書5),25)の一節にこれを説明する資料を見いだした。

 要約すると、当時、仏教排斥を主張した物部守屋と戦った崇仏派の蘇我馬子と厩戸皇子(後に聖徳太子)の軍勢が二度、三度と戦いを繰り返したが敗退、戦況はかばかしくなかった。

 用明天皇二(587)年、当地に布陣していた太子軍の一人、藤原朝臣菅吉永(吉仲麻呂)は椋に向かって、「心あらば丸(麻呂)を助け給え」と祈った。

 すると椋が二つに割れ、それに御馬を乗り込んだとき弓を取り落とした。落とした弓は三日月と化し、即、二つのいなりの蝶となって水田に落ちた。その有様を見た物部守屋の目が眩み慌てて引き返した5)とある。

 ここに、菅吉永は、「藤原朝臣」とあるが、「朝臣」の称制は天武天皇十三(681)年に初めて下賜されたもので、この時代には藤原朝臣はまだなかったから、これは後世の創作とみられる。

 ともあれ、「その場に居合わせた十二人の僧の一人、師薬正人が太子に向かい、「御運開ける兆しあり」と云い、僧らは八万堂で一心にお経を誦じた。その結果、物部守屋の調伏に成功した」5)と云う。


 塚を築いてお経を奉納

 「万事思し召すままに調(整)ったことから、お経の霊験を崇め塚を築いて奉納し、当地を「塚築」と云う。しかし、文字には御調物の調を頭に、下には三日月の月を書くなり。

 よって、調月(ととのうつき)と書き、「つかつき」と云う事、この代よりのことなり5),25)」とある。したがって、「塚築:つかつき」の呼び名に、「調月」の文字をあてたものとみられる。経文を経筒や経箱に入れて地中に納める習わしは古くからあり、その塚を経塚と呼んだ4)

 とき恰も、河内国(八尾市)で木の上から弓を引いていた物部守屋は、迹見赤檮(とみのいちい)に討たれて木から落ち、首を切り落とされた41)とあり、両者の時期(用明天皇二(587)年)が合致する。

 お経の霊験が功を奏したのか、はたまた偶然の一致かは知るよしもなく、真偽の程は読者の想像にまつしかない。

 その後、吉仲麻呂の従者でもあった紀男麿宿禰は、河内・紀伊において物部の残党を退治し、当地に来て村を拓き5)、紀男麿宿禰調月(ちょうげつ)と名乗ったものである。

 同氏は、もと聖徳太子の馬方を務めていた5)ことから、吉仲麻呂とともに「塚築」の大事に関わり、調月の地名決定にも関与していたものと思われる。しかし、自身の名前は一般に読める調月(ちょうげつ)とし、調月(つかつき)とは名乗らなかった。

 調月(つかつき)を都迦都岐(つかつき)とした記述(紀伊續風土記)もあるが、これは調月(つかつき)の万葉仮名である。


 「調月(つかつき)」はハングル読みだった

 ところで、「調月」の文字は、国語では「つかつき」とは読めない。漢字には「調」を「つか」とは発音できない。韓国語辞書や韓国人によると、「調月」は通常は「チョウ ウォル」、または「チョ ウォル」と発音するが、ハングルではツカツキ「츠카츠키」とも書き、「Chu Ka Chu Ki :ツカツキ」と発音できることが新たにわかった。

 調月の地名誕生に関わり、後に調月を拓いた紀男麻呂は、大和時代後期の武将で、欽明天皇二十三(562)年、新羅に侵された任那(三世紀から六世紀にかけて大和朝廷が植民地的に経営した朝鮮半島南部の地域および国家)回復のため、大将軍として渡鮮していることは欽明紀にも書かれている。

 また、崇峻天皇四(591)年にも任那再興のため、新羅を討つべく再び二万余の兵を率いて筑紫まで出陣したが、蘇我馬子の天皇弑逆(君主や親を殺すこと)により、渡海を中止した47)ともある。

 もともと紀氏とその祖は、往古に朝鮮半島を経由して日本列島に渡来した一族とみられており、文明や文字にも、朝鮮半島との関わりが深かったであろうことは想像に難くない。

 「紀氏は、中国の古代国家・周(紀元前1100〜紀元前256年)と周王朝滅亡後に分裂した国の多くを建てた「姫(き)氏」の血を引く一族だろう。

 そして、朝鮮の南部、可耶を経由して北九州に渡来し、佐賀県基山町付近や熊本の菊池川流域を拠点に根を張り、西日本全域に勢力を広げた。南河内に進出したあと、紀州に居を移した一部が一族の中心になり、紀王国を造った。

 大王を称して朝鮮で暴れ回ったのは、故地の支配権を奪回しようとした企てで、大和朝廷の指揮下に入ったのではなく、独自行動だった」167)という。

 こうしてみると、調月(つかつき)の呼び名は当時の朝鮮半島の言語からきた可能性が高い。発音が単なる偶然とみては、あまりにも出来すぎと云えよう。

 ただ、ハングルは朝鮮において「訓民正音」として公布されたのが1446年と比較的新しいが、阿比留(あひる)文字を参考に作られたとされ、その起こりは遙かに古い。阿比留文字とは、漢字の伝来以前に用いられた紳代文字の一種、日文(ひふみ)の異称で、対馬国卜部・阿比留氏に伝わった4)とされている。


 紀男麻呂宿禰調月について

 古代、調月を拓いた領主・紀男麿宿禰調月の人物像について、もう少し掘り下げてみよう。

 古代からの豪族・紀氏は、先代旧事本紀によると、天道根命をもって紀伊国造となす。即ち紀河瀬の直(上代、県主など地方豪族に与えられた姓4))の祖である。紀伊国造のこと、橿原朝(神武天皇)の御世、神皇産霊命五世の孫、天道根命を国造に定め賜うとある。紀国造(紀直)の先祖である。

 また、紀氏の祖とされている天道根命は、大歳(改名して饒速日)尊が筑紫から大和に東遷するときの一行に名を連ねてており、饒速日尊が創建した大和国時代以前から重臣として活躍していたことが知られる。

 紀伊続風土記も、天道根命を紀国造の始祖、第八代の紀国造を紀直豊耳20)としている。国造は、大和朝廷から任命された地方長官で、今でいえば県知事である。

 記紀によると、紀臣の先祖は孝元天皇(八代・大倭根子日子國玖琉命)と伊香色譴命(大歳尊=饒速日尊の七世孫)の間に生まれた彦太忍信命(比古布都押之信命(記)で、建内宿禰の父も紀氏一族の紀武雄心命5)としている。

 建内宿禰は大和朝廷の初期、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の五朝に仕えた4),45),46)人物で、発見された墓碑によると「辛未七月四日、年百六」とあり、在世年代はAD26637153)とみられている。長寿社会の現在からみても特別な長寿だったようである。

 紀氏は、紀直(紀国造)と、中央で朝廷に仕えた紀宿禰や紀臣、紀朝臣の二系統があり、六世紀には完全に分離しており、紀男麻呂宿禰は紀朝臣の先代である。紀男麻呂の父は紀生磐で、男麻呂の子の一人は紀鹽手5)である。

 欽明天皇二十三(562)年七月、紀男麻呂宿禰は大将軍として新羅(朝鮮三国時代の一国)に派遣された(欽明紀)とある。

 紀男麻呂宿禰は、同時代の天皇や、父の生磐宿禰、子の鹽手の生存年代、吉仲麻呂の没年(598年)5)から考証すると、在世年代は543606年、没年齢は64歳前後かと推定できる。


 欽明天皇二十三(562)年、大将軍として新羅に派遣された時、紀男麻呂は若干二十歳前後と思われるが、「勝ったときにも負ける時を警戒し、安泰なときも緊急に備えるというのは古代からの良い教えである。今いるこの場所は、山犬と狼の交わっているような猛悪の者が住む恐ろしいところである。

 軽率に行動して、後の禍にならぬようにすることを忘れてはならぬ。平安の時にも太刀や矛を身から離さぬ君子の武備を怠ってはならぬ。慎み戒めて、この注意を励行せよ。また士卒らはみな服従した」47)とあり、部下に名言を訓示している。

 また、崇峻天皇五(592年、紀男麻呂宿禰は、任那再建の為、再び新羅討大将軍として二万の軍勢を率いて筑紫に出向いたが崇峻天皇弑逆で中断。推古天皇三(595)年三月、筑紫から大和に帰還した47)とある。

 紀男麻呂はこの三年間、どこで何をしていたかは定かでないが、伯父、または従兄弟にあたるとみられる吉仲麻呂(菅吉永)の居た当地に来ていたのかも知れない。


 旧高野領内文書によれば、「紀男麻呂宿禰は推古天皇御宇、当地に来て紀氏の谷を拓き、推古天皇十一(603)年、八万堂(やまんどう)に大年明神を祀り五穀豊穣を祈った。

 また神戸(貴志川町神戸)に社殿を造り、紀氏の神を祀った」5)とあるように、紀男麻呂宿禰が当地に来て祀った紀氏の神も、やはり大年明神(大歳尊)だったとしても不思議ではない。したがって、貴志川町国主に在る大国主神社は、当初は紀男麻呂宿禰が祀った大歳明神だった可能性が高い。神戸とは古代、「かむべ」と呼び、神社に属して租、庸、調や雑役を神社に納めた民戸(じんこ)のこと16)である。

 現在の大国主神社は、「祭神大国主命は、別名大物主神」としている。大物主とは、大物主櫛甕玉大神で、奈良県桜井市三輪の大神神社の祭神(大物主神=大歳尊、改名して饒速日尊)と同神である。

 書紀の編者らは、古代に活躍した須佐之男尊や大歳尊等、有名な出雲系の神々の史実を抹殺するために色々と策を講じ、祭神名まで改竄した跡がみられる。

 日本書紀は、「大国主神の別名は、大物主神(饒速日尊=大歳尊)、国作大己貴命、葦原醜男、八千矛~(須佐之男尊)、大国玉神(大和大国魂大神:大大和神社の祭神=饒速日尊)、顕国玉神」46)と書き、多くの別名を付けて曖昧にして混乱させている。

 しかし、いずれも出雲神の総称である。ただ、大己貴尊(大穴牟遲命(記)は、須佐之男尊の末子・須世理姫命の婿養子となり、国王・須佐之男尊の後継者55)となったことは確かなようである。当時は、末子相続が慣わしだった。

 現在、大国主神社の在る貴志川町国主は、もとは貴志荘で中世に藤原氏の末裔・貴志五郎知兼が下司職20)となってから、紀男麻呂宿禰が名付けた紀氏の谷を、同音の貴志の字に変え、紀氏の神「大歳明神」を大国主神に変えたと思われる。

 紀伊續風土記に出ている貴志荘国主村の国主明神社20)で、現・大国主神社、通称:「おくにっさん」である。

 紀氏系図については、公卿類別譜・古事記・日本書紀・先代旧事本紀・舊高野領内文書(三 貳河氏系図・野口氏系図)を参照して一括図示すると次図のようになる。


 大歳神社の創建

 大年(大歳)神社は、和歌山県紀の川市桃山町調月宮垣内(もと宮ノ尾)、貴志川下流・東岸(もと吉仲荘調月村)にある。

 「紀州那賀郡吉仲庄調月邑大歳大明神縁起」によれば、推古女帝(在位592628年)のとき、紀男麻呂宿禰調月が聖徳太子(574622年)につかえ、物部守屋(?−587年)の仏教受容反対をおさえた。後、紀伊国の当地に来て、住民に耕作を教え開拓を進め、大年明神を祀ったという。また別伝には、欽明天皇(六世紀)の皇子・吉仲麻呂が当地に住んだ時、従者の紀調月に命じて猿田彦命と天鈿女命を祀ったとも伝える。

 創祀は、推古天皇十一(603)年、八万堂=山の堂社とも、現・山人平の旧大歳神社跡で、山人さんと呼ばれる。

 やがて、天平年間(729748年)、僧・行基(668749年)の発願により、天平十三(741)年、社地を旧地(八万堂)から現在地へ移し、別当寺(神宮寺)を建立した5)という。

 大歳神社の詳細は、「調月の歴史」の「大歳神社」を参照下さい。


 「大年神社の祭神は、大市姫命・芝原明神・若宮八幡・春日天神・大気津姫神・春日稲荷大社、および紀氏神を祀る」と、最近まで同社の看板に書かれていたが、主祭神は大歳明神でありながら、「祭神大年神は大市姫命で云々」と書かれていた。これは、日本書紀の記述に沿って祭神の改竄が行われたことが判明した。

 主祭神は、紛れもなく大年明神(大歳尊=改名して饒速日尊)で、須佐之男尊と正妻・櫛名田比賣命の御子で、須佐之男尊が亡くなられた後、筑紫から讃岐、播磨、摂津、河内を経て大和(奈良県磯城郡田原本町の唐古・鍵遺跡辺り)に東遷、日ノ本王朝大和国を建国した始祖王で、日本(ひのもと)の命名者56)でもある。

 大歳尊の詳細は、「大和建国の覇王・大歳尊」を参照下さい。


 本社は、奈良県桜井市三輪の大神神社(陵墓は三輪山頂の奥津磐座)で、大物主櫛甕玉大神として、また大歳御祖神として祀る神社もあり、各地に残る天照神社に祀られている。近畿以西では多くの大歳神社で祀られ、兵庫県では神戸市を中心に340社にものぼる。諡・天照国照彦天火明櫛甕玉饒速日尊57)である。

 饒速日尊は、八世紀に記紀が書かれるまでは皇祖天照魂神だった。今の女神天照大御神を祀る伊勢神宮は書記の編纂とともに創建され、当時の持統天皇が参拝しただけで、記録に残っているのは明治天皇が参拝したのが初めてで、持統女帝以後、江戸時代までの天皇家は伊勢神宮に参拝した記録はない54)という。

 奈良時代以降、中世には神仏習合がすすんでいたが、皇国史観が強くなった明治時代、神仏判然令が布告された。そして、伊勢神宮をはじめ神武天皇陵が大々的に整備され、古代天皇の古墳と伝承されてきた陵墓の指定が行われた。


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